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エッセイSP(スペシャル)

根室本線、旧レールの側に立つ

梅津 邦博

2021年4月12日

 現帯広駅は1996年(H8)に高架鉄道となって駅舎も新しく近代的なスタイルになった。北口へ出て行くと、タイル敷歩道に2本のレールがモニュメントとして東西方向に埋め込まれている。それは以前の根室本線レールがそこにあった証である。それを眺め、ぼくの歴史が立ち上がってくる。旧駅舎時代に於いてはいくつもの出来事や旅立ちがあった。
 幼稚園入園前、両親と共に帯広駅から汽車に乗って札幌へ行くことになった。親は、ぼくを呼んでも知らぬ顔に訝り、耳が聞こえないのではと思った。そして北大、札幌医大と診てもらいに向かった。検査の結果、聴覚神経の機能がかなり弱いことがわかり、医学的に治療不可能だった。大学病院を2軒回ったということは、一件目が駄目であっても二件目が何とか治してくれるのではという期待を持っていたのだろう。診察を終え、不憫だと思ったのか真駒内の遊園地へ連れて行ってくれた。ぼくは乗り物などにはしゃいで遊び回っていた。
 幼稚園の時。父母に連れられて初めて父の故郷山形県へ行くことになった。汽車が何輌も繋いでレールの上をどこまでも走ってゆくさまが面白い。青函連絡船に初めて乗って本州に入った。山形に着き、お父さんはこんなに遠いところで生まれたのかと思った。
 中学3年のある春の日、父に言われて浦幌町吉野のお客さんの所へ洋服を届けることになった。父は出来上がった背広上下服1着を洋服箱に入れて大きな風呂敷に包み、車で駅へ送ってくれた。
「じゃ、行って来ます」
「しっかりな」
 浦幌駅一つ手前の吉野駅で下車した。お客さん宅を訪れてお会いし、洋服をお渡しして代金を戴くと領収書もお渡しした。お客さんに深くお礼を申し上げて失礼する。帯広行の汽車に乗り、ぼくは洋服屋になると思い巡らしていた。
 高校卒業し、札幌で就職するため列車で発った。紳士服販売店に勤めたが事情により3カ月で辞め、注文洋服のアトリエに入って仮縫い作り他をやっていた。その半年後に父が倒れたと連絡が入り、帰省した。軽い脳卒中だった。家で静養しているが、まもなく仕事に復帰出来るとのこと。しかし再発したら洋服屋は出来なくなるかも知れない。いつまでも札幌にいられない。一旦戻り、退職して帯広に帰ることにした。
 店を継ぐにしても、裁断技術の基礎をマスターする必要があり、東京へ行くことにした。1か月後、特急おおぞらに乗って発つ。新宿のデザイン学校夜間部に入ってドローイングの勉強をする。卒業後、紳士服製造メーカーに就職。そうして3年後、潮時と思い、上野から特急はつかりで発つ。青函連絡船で函館へ、そして特急おおぞらで帰帯した。
 ぼくにとって帯広駅は非日常世界の出入り口でもあり、人生の節目の舞台でもあった。

◎プロフィール

帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。

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