No.1,619
2024年6月10日
いわゆる『終活』についてここの処、思う事が重なっており。世代的には「まだ早いでしょ」と言われますが、個々の心持は生きて来た歳数字と比例するものでもない。
広く社会を眺めていても、狭く共同体を眺めていても、それは自身を含めですが「希望」と云う言葉がいつからか失われた感。生れついて後、人は育ち時々に「気づき」を得て学習し変わっていく。振り返れば、あの時あの道へと進路変更していたならば、と皆さんも多々思いも御座いましょう。
『偉人さん達』と云われる人の生涯を辿った文献も、必ず転機となる出来事に遭遇しては一念発起。衝動か深い思索上かは別としも、舵切るタイミングは天から降って来る様なもの。「鉄は熱いうちに打て」って、古きよりの言は大抵過ぎ去った後に、本来の意味を知る事に。「出会いと別れ、破壊と再生」それこそが生物の根源テーマなのでしょう。だが、そこを本格的に身をもって知ると後は、先が無いのかもしれない。「クエスチョンが希望であった」と後になって知る域に達した先人たちはハタシテ以後、何処のステージに身を寄せていたのか。
話を戻し終活から手始めの断捨離、これ迄興味そそられて手にして来た〝モノ〟の手放し。それらは今現在ここに居る自分にとっては、いささか重荷に感じる物質たち。これだけを視て考えても、人っていうのは精神と肉体との年齢期によって変遷する『物欲』が可視化され、分かり易い。世の人の物欲に行動欲等に標準を照らし合わせ、広告を的確にあちこち発する経済なる循環。
今は人々がネットSNSで、何か検索した後に関連商品を次から次と通知を浴びせる、AIによる押し売りも良く出来たシステム。受け取る側にとっても、昔の自宅への訪問販売や電話販売とは違い、手間と心的負担は低かろう。
売り手と買い手のマッチング変遷こそ時代を反映、かつての荷物を背にしての行商姿がやけに沁み入る。
そして初の断捨離に本棚に照準を合わせたが、〝躓き〟の始まり。