No.1,632
2024年9月16日
『商い』とは生活そのもの。人々の時代の変遷をそのまんま痕跡付かれている。
江戸時代辺りから、庶民の暮らしは農産水産品に関わる物々交換に金銭交換へ。その実体験は昭和時代からですが、現帯広駅前通り沿い商店街界隈の大変化は手に取り知る。○○商店と、日々の生活に必要な品を誰もが模索、二も無く行動に移し看板をノレンを揚げ。今で良く耳にし推奨される「起業」って言う昭和版ですが次々、今思い返せばみんなよく起業していなさった。
現代の核家族化風潮の逆で、一族郎党寄り合っては結集協力し〝商い〟に精を出し何とか生活維持。各業種に一族の〝商い〟は広がり、内々でモノのサービスが完結する雰囲気さえも。そして、各々の商い場に住み込み働き雑魚寝の共同生活。その大らかとも雑とも思われる人々の日常は、それぞれ人間らしさ丸出し全開の姿。あれが人本来の、身も心も着飾らない『本性の輝きであり生命』と思える日々。小説家の様に詳細、空気感お伝え出来ぬのがもどかしい処ではありますが、頭の中には今でも活き活きと存在している世界。
近頃明け方辺りの時刻、頻繁に夢を見る様になりました。目が覚めてもハッキリとそのあらすじや登場人物を憶えている。何とも唐突なストーリーに自分でも興味を感じ、目覚めてメモでもして物語を書こうかなって程頻繁に。起きている間に意識して創作しても100%思いつかない、そんな展開に面白がり始めた自分がおります。そして登場人物は過去に時間共有はしているが、「何で今あの人が?」って夢の数々。
人生の晩年には走馬灯の様に、脳内スクリーンに長年積み重なった記憶が映し出される、って説。これは実際に在るのでしょうね、或る程度の年齢からは記憶は手前から消えて行く、それも本当。高齢者方々の晩年を身近に接しては、自然の摂理に身を委ねる心構えだけは『完了』しているつもりの昨今です。