No.1,643
2024年12月 2日
今やSNS上で日々放たれる写真の総枚数、想像しただけでクラクラする。一体全体、世界中でどれだけの写真がスマホで撮影、公開となっているのか。撮ったはよいが二度と見ることもないような写真も、クラウドだとか貯蔵庫に途方もない数が保管され。それにどれだけの維持電気容量が使われているのか、皆目見当も付かず。
ふと、そんな事を思い出したキッカケはですねー、偶然に昨夜自宅で古い写真アルバム数冊目にし、ページを開き送っては感慨に耽っていたから。昨今の家庭では、もう紙写真のアルバムよりも電子化して取りまとめ、紙のアルバムも少ないのでしょう。『終活』に入りし世代の方々が、子供世代への負担軽減の為に紙写真アルバムを自ら処分する話も聞く。忍びない話であります、産まれてからの折々の自らの家族らの写真を感謝しつつ焼却するは。
日記なんかもソウ、自分の心よりの年月を経た言葉も、人の眼には触れさせない様自ら処分しがち。写真も文章も自らがこの世に生れ落ちて以後、紆余曲折の痕跡を処分する終活は切ない。
モノも含めて「自分がこの世に生きた証」だものねーっ、切ない。
時代が代わり、墓じまいから断捨離と、アナログからデジタルへの過程期に心は揺れる。それでもひと世代ふた世代先からは、認識はくっきりと変わりこんなにモノに依存しないが当たり前で、そう言う意味ではクールに区切りが付けられるのかもしれない。
さて、そうなると問題は『デジタル遺産』の扱いとなってきております。この先も進むインターネット社会、ソーシャルネットワークのおびただしい渦。誰もがアッチコッチにアドレスやパスワードを登録し、果てに放置し忘却し。今や人の歴史は、紙の手紙に写真から、そっちに移行真只中。これらも今後、数年に渡ってログインしなければ消去する法律の制定へも向かいましょう。普及途中の個人ナンバーカードに、全て紐づけされる作戦の最中なのかもしれないし。果ては、AIが擬人化し知らず世の中を動かしていたりしてね。