生きてゆく
2012年1月23日
ふりむくとテレビで年末特集報道スペシャルをやっていた。東日本大震災で沿岸の街が巨大な津波に吞まれてさらわれているシーンが映っており、次に家族も家も失って海の遠くを見遣りながら痛哭している何人かの姿が映し出されていた。あまりのむごさに耐え難く視線を逸らしてしまった。悲しみの渕にいて泰然自若としていられる者などいるのか。他者が他人の不幸を目の当たりにしても、それは対岸のことであるのか。
人々はたいがい平凡なる日々を送っている。それがある日、例えば身内が何かの出来事によって亡くなるようなことでもあると、途方もない悲しさと寂しさに見舞われて狂わんばかりになってしまう。やがて無情の時は過ぎゆくにしたがって薄れてはいくだろう。
クリスマス・イブ前日、低気圧通過で帯広は積雪五十センチの大雪になった。雪搔きに精を出し、翌二十五日晴れ渡った正午過ぎに年賀状を出すべく帯広郵便局へと街中を歩いてゆく。銀青色に耀く空の下で地上空間はあまりにもクリアに透き通り、それが寂とした風情に満ちているふうでたまらない。
賀状を投函して踵を返す。六花亭ギャラリーで十勝の若手画家たちによる作品展が開催されていて、覗いてみることにした。入場すると、なかでも「家族の肖像」と題された作品に惹き付けられてしまった。
五人が横並びに描かれた穏やかな表情の絵である。全体的に明るい夕焼けだかのような色合いになっていて、彼等の背景は何かの建物らしくかすんでいる。それは積み重ねられたレンガ壁のように見え、そのひとつひとつの横線は一人一人の年輪にも見える。
その絵から、
「私たちは幸せです」
という声なき声が聞こえてくる。いい絵だなと思った。けれどもそれが時間とともにモノクロに感じられてきて、
「私たちは幸せなのでしょうか...」
と尋ねられているような気もしてきた。それなりに充ち足りた世界なのに、何故か翳りがゆっくりと膨らんできた。
幸福とその真逆とは表裏一体でもある。光と影は常に動き廻っているのだ。何もなく普通に暮らしていけるということがどんなに幸せなことか。そういうことを失わないようにして生きたいと思うのだが。
人と人とが手を繋いで笑顔を見せても、あるとき思いもよらない不幸なことが起こってしまう場合もあるのだ。そうなってしまって立ち止まったままでいると、不安のさなか後ろへ倒れかねない。だからとにかく、なんとかして陽が昇る方向へと歩き出してゆかなくてはならない。そんなときの一歩は重いが、そうしてやがて光が見えてくるにちがいない。
◎プロフィール
自営業。文筆家。著書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。
新しい年を迎えました。人類も地上も危ないとされ、想念の大転換が求められています。今年も自分なりに万象を見ながら文章を書いていきます。