下天のはざま・・
2012年1月30日
琵琶湖巡りの前日、大阪城は大手口の左手にある千貫櫓を訪れていた。本能寺の変から三日後、織田信長の甥で、明智光秀の婿にあたる織田信澄は、信長の三男・信孝から光秀に加担していると疑われて攻められ、この櫓で討ち死にする。享年二十七歳の若さであった。
名古屋に居た折り、住まいの近くの末盛城址は散歩コースとなっていた。信長の実弟・信行の居城であったが、兄に謀反を起こし誅殺された。この時、遺児の坊丸は信長の命により家老の柴田勝家に託され、成長後は信長の近習として「一段の逸物」と謳われ、信長連枝衆で五本の指に数えられた織田七兵衛信澄となる。
数多の信長小説では、自分に背いた弟の子を生かした理由が描かれていない。信長は何かを考えたのか・・勝家に養育させ側近に登用したのは、織田家を纏めるため弟を犠牲にしたことで謀反人の子ではなく、一門の武将に育て重臣の光秀の婿とさせたのではなかろうか・・信澄も伯父の期待に応えようとしたであろう・・と想像は果てしない。
今日、書店の店頭を賑わしているのが「もし信長が生きていたなら・・」「関が原で西軍が勝利していたら・・」などの歴史シミュレーションで、本能寺後の織田一門の動きと信澄が大阪で倒れず、伯父の仇討ちをするか・・舅に組するか?を展開する小説が出た。
大阪は信長の四国攻略の前線基地。中国に駐留の秀吉、援護を命ぜられた光秀、自身も本能寺から出陣の手筈になっていた。重要拠点を預る信澄は、琵琶湖西岸の大溝を知行している。
大溝城から若狭、秀吉の長浜城は越前・美濃、光秀が坂本城から京都・伊勢、信長は安土にあって街道と湖上を制覇。軍事基地と物流経済を掌中に治め、船で京へ直行する湖上ネットワークを構築したといえる。世に知られた三人に比べ信澄の記述が乏しく、大溝城址のある近江高島市から資料を取り寄せるなど文献を漁り「安土城と共に訪ねたい場所」になっていた。
近江高島駅から五分の大溝城址を訪ねると規模は小さいが光秀が縄張りした堅固な造りであった。駅裏の丘にある信澄が開基した大善寺に回り「大溝城主・織田信澄慰霊碑」を写真に収めた。この地では、毎年六月五日に「信澄忌」が営まれている。
安土山の天主跡を目指すと前田利家、羽柴秀吉、徳川家康の邸宅が並び、中腹に信長の嫡男・信忠邸があり、さらに進むと森蘭丸邸と隣り合わせた信澄邸の標識を発見・・いかに信長に重用されていたかを目の当たりにすることが出来た。
◎プロフィール
〈このごろ〉「ニューイヤーズ・イブ」を観る。ニューヨークの大晦日カウントダウンに不器用な親子、家族、恋人たちが綻びかけた絆を紡ぐ・・そこに自分の姿が重なっていた。