ひとり制作部
2012年6月25日
できれば、同じ職場に勤めて、定年を迎えるのが理想なのかもしれない。同じ工場か社屋を見て、タイムレコーダーの用紙に入退出の時間を刻印しつづける。上司や同僚たちの頭が薄くなり、白髪になるのを見ながら仕事人生を終える、それもありえた。
しかし、私の場合はそうはならなかった。最初に勤めたのが帯広の印刷会社だった。勤めて三年後にデザインの学校で学びたいと思い、印刷会社を辞めて札幌に移転した。学校は夜学だったので、昼間はデザイン会社に勤めることになった。途中からアメリカの通信教育も開始したので、その受講料の支払いで生活のやりくりが厳しくなった。
勉強を優先したかったので、給料がもう少しほしかった。折りよく知人を通して転職の話が舞い込んだ。少し昇給になるという条件で出版社に転職した。まだ二十歳前だった。
その職場は、すすきの四丁目のビルの四階だった。制作部は営業や業務と同室だった。制作といっても机がひとつあるに過ぎなかった。広告の制作が中心だったが、広告代理店経由の原稿もあったので、そのときは電通や博報堂に完成原稿をいただきにゆくことがあった。机から離れて大通り近くまで歩いて原稿をとりにゆくのは気晴しになった。広告代理店の制作室の雰囲気をそれとなく眺めるのも刺激があった。いずれ広告代理店に勤めてみたいと私は考えていた。
広告制作には締切があった。営業は余裕をもって、原稿を出してくれれば問題がないが、締切直前で込み合う。編集部の記事のタイトルやイラストも最終的にこなさなければならない。印刷所に間に合わせるために、私は締切前の二日間はアパートに帰って徹夜でこなした。こんな調子では仕事が雑になると思った。
それで営業の人たちを前に、もう少し早めに原稿を出していただけないでしょうか、と訴えた。K常務は「制作は一人なんだし締切ギリギリにならないように配慮してやりなさい」と援護してくれた。 それでも、営業部には数字を上げるために、締切間際まで延ばして、もう少しで契約になるから待ってくれ、と私に耳打ちし懇願する人が数人いた。締切がまたもルーズになってきた。そんな時に、ポスターの描き文字に誤字があった。社長に呼ばれて叱責された。落胆して机に戻り、うなだれていると、営業課長が、うちに飯でも食いにこないか、と声をかけてくれた。
約束の夜、課長の自宅にお邪魔し、奥様の手料理を食べた。課長が「締切間際に仕事が集中するから、若いのに一人でがんばっているんだ」と夫人に説明していた。なぐさめられ、冗談で和まされた。その気遣いが分かって、うれしかった。何かの折に、ふとあの日の夜の場面を思い出す。課長の名は鈴木功さん。私には忘れられない名前なのだった。
◎プロフィール
転職のたびに、新しい職場に適応する苦労と気疲れがある。やがて仕事はなれてくるが、人間関係には注意をはらう。