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エッセイSP(スペシャル)

通り雨

吉田 政勝

2012年7月23日

 7月1日はヤマベ釣りの解禁である。私は休日が金曜日なので6日に釣りに行った。最近はTさんと大樹の歴舟川支流の小さな川へ出かけることが多い。釣果の胸算用はしないことにしている。川を歩き自然の中で過ごしてヤマベを数匹釣ったら満足だ。昼過ぎには車の場所まで引き返し、おにぎりをほおばりながら空を見た。その日の天気予報は曇りのち雨だったが、雨になる空模様は予想できなかった。帰宅した私は、町にある温泉銭湯へいった。
 浴室のシャワーで、帽子でつぶれた頭髪の形を整えるように髪を指先でかき回し洗い、汗くさい身体をせっけんを泡だてて洗い流すと気分爽快だった。脱衣室で身体をふいていると清掃係の女性が急いで天戸を閉め始めた。それで私は雨が降ってきたんだと分かった。着替えると暖簾をくぐって脱衣室を出た。
 廊下の向こうから婦人があわただしく傘をたたみながら入ってきた。彼女の肩の辺りが濡れていた。小雨ですか、と問うと、どしゃ降りですよ、と答えてきた。玄関前の窓越しに外を見ると、雨脚が激しくなっていた。小降りになるまで休憩室で待つかな、と私はつぶやき戻ろうとした。傘ありますから車まで送りますよ、と婦人が応え、遠慮する私に、有無を言わせぬ口調で、いえいえ傘をさしますから、と言ってくれた。
 玄関から出ると彼女は私の頭に傘を向けた。婦人用の傘ゆえやや小さい傘だ。あなたが濡れるじゃないですか、と言うと彼女は、私はかまわないわ、これから温泉に入るから、と説明した。私は自分の車へ向かうが彼女はその方向が分からず傘を左手に持ち右手は私のシャツの腹辺りをつかんでいた。どの車ですか、と彼女は訊いてきた。手前のその車です、と言い私は指をグレーの車に向けた。もうここでいいです、ありがとうございました、と車に近づいた私はお礼を言ったが、彼女は傘を私の頭に向けていた。もちろん彼女はその間は濡れているだろう。私は素早く運転席に体をすべり込ませた。窓越しに彼女を見ると、戻りながら振り返り満面の笑みを投げてきた。私
が車まで濡れないでたどり着けたことを彼女は喜んでいるのだ。大雨に声もかき消されると思い、私は身振りでお礼を伝えたくて、車内から頭を下げると、大げさに手をふった。
 急な雨のおかげで、雨具も用意できていなかった私は見ず知らずの婦人に親切にされた。その行為はなんの思惑もない飾らない相手への思いやりの心だけが際立ってきた。
 その一時の婦人の動作や短いことばのやり取りを名短編の描写のように反芻した。いとうべき雨だったが、さりげない人の心に胸打たれながら車のハンドルを握り、ワイパー越しの前方を見ていた。
 

◎プロフィール

 競争の激化、格差社会……。せちがらい世の中が確実に人のモラルを低下させている。ゆえに人の親切に救われる。

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