No.1,047
2012年7月16日
数年はろくに手をかけていない我が家の「お庭」、たまに生え放題の芝生だか雑草を、仕方なく電気草刈り機で刈り取る程度、の付き合いでした。父が健在の頃は、夕方に日曜に延々と何が楽しいのか草むしりしている姿を、何とはなしに家の中から眺めていた。手入れされた庭に、麦わら帽子に首にはタオル姿の父が額の汗を拭う、「あぁ牧歌的風景!」、と。世間様でも年配の方が庭いじりや、家庭菜園へ細やかな愛情持ち育て、幸せを得ているは承知している。
さて、数年前から入院して今年の春先に亡くなった、我が父の残したささやかな庭の木々達。ずいぶん前に父との会話で、「この庭アンタに上げるわ」、って笑いながら言われても意味が分らず、記憶の片隅に仕舞い込んでいた光景が蘇る。「上げるわ」って「手入れしなさい」って意味ですか?、って天を仰ぐ。
そんな事もあり今年の春から、仕方なくもホームセンターに通い「お庭いじりグッズ」なんか見て歩くと、それはそれで興味も。伸び放題の「松」やら「楓」やら、名も知らない木々達を、購入した「大小の剪定ばさみ」を駆使し感性一発勝負で「バツバツ、チョキチョキ」、勝手気まま野法図に切り始める。一時、絵を描く事に凝っていた時期があり、水彩画のパステルを使い半年位とり付かれた様に、数十枚の作品を残した。今、思い返してもあの時期は絵の神様だか霊が描かせていた様な。
歌だって文章だって、岡本太郎の「芸術は爆発だー」だって、芸術的表現は「一種の憑依論」が根強く語られます、その絵を描いた時の感覚が、正に集中して樹の剪定をしていると今度は樹の神様だか霊が降りて来て、勝手に手を動かしては、木々の形を次々と形づけて行くのですね、「あぁ~おそろしや」。平たく言えば、木の床屋さんをしている訳ですが、樹の表情が床屋さんの思惑次第でガラリと変わるのが、あぁ楽しや。元々ボクは自分の髪も自ら切り整え、床屋さんへは行かないけれど意外に「センス」を感じたりしてね。
さて、一通り木の手入れを終えると次ぎは芝生が気になる。タンポポや何かの雑草で短く刈っても美しくない。いっその事、焼いてしまおうかとバズーカー砲の子供みたいなのを購入して芝生を焼きながら、コレマタ緑のキャンパスに炎で焼き付け黒字の絵を描く楽しさ。「あぁ~、こうして人々は代々日常の雑務さえ当たり前に受け継ぐ運命なのね、ねぇ、お父様!」。