No.1,053
2012年9月 3日
何だか大騒ぎしている「AKB48」の東京ドーム3連公演でのメンバー転出発表とか、翌日の秋葉原劇場による前田敦子卒業公演のテレビ生放送中継とか。
もともと、ボクはAKB48なるアイドル集団には懐疑的であり、まともに向き合う事はなかった。それは創立者である秋元康氏の手のひらで踊らされるを「良し」とは受け入れられない、その一点からです。元来、表面化している事象よりも、その「根っこ」を視る気質なのですね。
さて、今では昔になりますが「おにゃん子クラブ」で一時代築いた秋元氏、その後はシャ乱Qのツンク氏が手掛けた「モーニング娘」にしてやられていたものも、その間もジーット世の中の動きを洞察し戦略を練り続けていたのですね、満を持していざ「AKB48」の出陣となったのが七年前ですか。まんまと当たりましたね、秋元氏の頭の中の構想がそれ以上に日本の大勢の若者達の「心の拠り所の遊園地」を創造いたしました。これはもう、立派な心理戦の勝利であります、時代背景とそこに生きる男子の心をつかみ取る仕手。その様に仕掛け人の意図が透いて見過ぎる手前、創出されたアイドル達の動向を素直に評価せず学芸会的と直視しなかった。
さて、今回の前田敦子ちゃん卒業(この卒業って言い方も絶妙、本来は脱退って何処か後ろ向きニュアンスがつきまとうもの)フィーバーで歌番組はどこも占拠せられ、そんなボクも始めて彼女らのパフォーマンスと向き合った。流石にどこかで聞き慣れてはいる、数曲の楽曲を歌い踊る画面を観ていて、最初に思った事は完全なソロパートが無く、合唱になっている故になる程、特定の娘に依存する事なく曲のインパクトは残るが実際にステージに立つメンバーは、どれだけ入れ替わってもAKB48は成り立つ手法なのね、って。
これは恐ろしくも周到な作戦であります、いつまで経ってもどこまでメンバーチェンジしてもオリジナルで通用してしまう普遍性。加えて総選挙だとかメンバー移動だとか次から次へとドウでもいい様な発案も、ここまで大衆をあおりきれば立派な社会現象として成立してしまっている。とんでもなく大きな利権が発生して動いている、モノづくりならぬ欲求づくり産業。
そんな様子にいつも思うのは、諸外国からは如何様に映っているのか、日本って幸せな国だと呆れられてはいないか。これも「クールジャパン」でくくられてOKなのかもね。