新聞を読む
2012年10月 1日
家では二紙購読しているが、そのうちの一つ「北海道新聞」について朝刊内容はそれなりに満足をさせてくれるに足りる重量感のようなものがあり、そして夕刊はそういったこととは別にとても愉しみなのだ。編集委員報告、音楽、文学、案外に科学欄などがとてもおもしろい。
理系オンチのぼくが記事を読み、たまたま振り向いたら鏡に自分の顔が映っていて、なんだかリチテキな顔に見えたのは錯覚らしい。ともかく科学の魅力は、たとえば宇宙の話しにしても、天文学的な遠さによって自分たちの生きている世界の遙かなる大きさなどのロマンを教えてくれている。
柔らかい紙に、時事情報などが毎日たくさん載って配達されてくる。紙というもの自体、読み手の精神性に緩衝的な部分を生じさせてくれて、触れれば皮膚感覚になじむ性質があって心地よさがある。つまり自らの呼吸をしてゆくリズムにも合っているということではないか。そのことに添って受容する情報にしても生きているのだ。それらは相関関係を持っていて、したがって新聞は生きてゆくために必要不可欠な物のひとつだと思ってはいる。
新聞を読むという行為は「知識と論理や倫理などを養ってくれる一種の教科書」という部分もある。どう向き合って読むべきかと思うが、そんな規範などあるはずもない。ま、見出しだけを見て読んだ気になってしまうと損なことが多いので、時間がないなかでも出来るだけちゃんと読むようにしているのだ。
そして新聞記事というものは正しいか否かと同時にどういう性質のものかということもあり、書かれてあるものすべて受け容れている訳ではない。ところが記事によっては理解出来ないのも出てきたりすると、え、ちょっと待てよ、と思う。これは少しは文章らしきものを書こうとしている身としては由々しきことなのだ。あだやおろそかには出来ず、悩ましくてたまらない。
朝刊が届くたびに八十代の母上と不肖の息子であるぼくは、お互い先に読みたくて取り合いになることもある。母上はいつも床に広げ、前屈みになりながらしてじっくりと一面から眼を通してゆくのだ。その後ろ姿には迫力が感じられてならない。政治欄を読んでいて
「みっともないねぇ政治家は、相手側の批判ばかりして…」
なんだかどこかぼくにも通じるみたいな気がして聞こえないふりをしたが、その政治家がテレビに映っていた。ホントだ、と思った。
それにしても新聞休刊日の日は物足りないというのは、新聞の術中に嵌ってしまっているんだな。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
北海道新聞十勝版「防風林」執筆同人(04年から六年四ヶ月間)。
プラスワン「エッセイスペシャル」執筆同人。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。
趣味=素潜り、映画、旅、風景鑑賞