秋に聴く奥悩
2012年11月 5日
人は季節の影響を受けながら生きている。さまざまなありようにあってときには音楽に親しむこともある。それは季節感から促されるように何かに呼応するかのごとく聴こうとする曲もあるだろう。
しかしたとえば冬にベートーベン「交響曲第五番」などをと思っても、身体的にもイメージ的にもそぐわない気がする。そんな閉じ込められているかのような季節には似合わない雰囲気がするのではないか。やはりそういう曲は、厳しい冬を乗り越えたあとに訪れる春から初夏の頃が、叙情性も加味されて豊かな気分にならせてくれるのではないだろうかとも思える。もっとも曲名が「田園」であり、どこか春らしさを感じさせられるふうであるのならばなおのことそう思うのかも知れない。
静かにふかく眠りゆくみたいな「冬」はやがて次なる季節へ向かうべく自然界の生命力を醸成しているときであり、そうしていつのまにかじわりと何かが動いて軽やかなリズムが生じてゆく「春」が訪れる。それが勢いに変わって耀きあふれるような「夏」を迎え、時は徐々に熱が引くようにして「秋」に入ってゆくのだった。
深まりゆくにしたがって、空が、街並みや住宅街の空間が、クリアに美しくなってゆく。秋の空と光には寂然感があふれてたまらなさを覚える。彼方へと広がる青い空なのにぼくの気持ちはなかなか突き抜けてはいかない。それは自らの人生においてできそこないの生き方をしてきたからだった。そんな思いにおいて聴く曲のひとつに、セルゲイ・ラフマニノフ(一八七三─一九四三)「ピアノ協奏曲第二番」(ロンドン交響楽団、アーノロビッチ指揮、[ピアノ、タマーシュ・バーシャーリ])がある。女性に人気のある美しい名曲だが、三十回や五十回くらい聴いただけでは解りにくいのではないか。聴く時はスピーカーに向かって少し音量を上げ、じっくりと聴き泳いでみる。集中して向かわなくてはならないために正直言ってかなり疲れてしまうのだが。
曲は導入部から劇的な暗示を秘めているかのような雰囲気で入ってゆく。そしてエネルギッシュな感じの展開となって広がりゆき、そのご何かの葛藤とも言うべきかが伝わってきて心の不安やままならなさや哀しみみたいなものが感じられる。それは生きることのつらさとかどうしょうもなさのなかでなんとか立ち上がろうとして苦悩しているふうに聴こえてならない。
聴いている自分自身が煽られてしまっていかんともしがたい。責められているようで切なくなってしまうのだ。まるで秋に聴く奥悩ではないか。だが、うらはらで曲としてはビンテージな色合いがしてすこぶる心地よさを覚えてならない。聴く者にさまざまな想いをめぐらせながらも心の底に泌み入ってしまうのだった。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
北海道新聞十勝版「防風林」執筆同人(平成十六年から六年四ヶ月間)。
プラスワン「エッセイスペシャル」執筆同人。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。
趣味=素潜り、映画、旅、風景鑑賞