恩 師
2013年3月 4日
病院の待合室で自分の順番を待っていた。先週採血した、その検査結果が知らされる日だった。混雑する待合室で「中村悦雄さん」と呼ばれている。もしや、高校時代の恩師ではないか、と前方を見つめた。椅子から立ち上がり左へと高齢者の男性が歩いていった。ややして戻ってきたので、その男性に近寄ると私は「吉田政勝です。私のこと分かりますか」と声をかけた。「ああ、覚えてますよ。新聞などであなたが書いたエッセイを読ませていただいてます」と先生は微笑み「倫理・社会を教えていたA先生があなたのことほめていました」ともいった。「倫社は好きな科目でした」と応えながら、私の目がうるんできてあわてた。
中村悦雄先生は、14歳の時に広島で被爆した。高校では国語を教えていたが、教壇でその体験を話したことがある。
1945年8月6日、中村先生は広島市内の山陽中学に通う2年生だった。その時は学徒動員で軍需工場で働いていた。午前8時すぎ教室ほどの大きさの集会場で朝礼の時にせん光が走り、その直後に吹き飛ばされた。気付くと後頭部から首筋にべっとりと血が付いていた。右隣にいたはずのクラスメイトが爆風で吹っ飛び倒れていた。揺すっても反応がなかった。次の爆弾が来ると思い、死を覚悟した。級友が「ああ、もうこれで広島も最後か」とつぶやいた。
顔がバレーボールのように膨らんで誰か分からないが、布のようなもので片腕を吊して「火の手が立っているから、早く逃げるんだ」といった声は担任の先生だった。
がれきの中、友人と二人で外に出ると周囲の家はぺしゃんこだった。皮膚が焼けただれた母子が、毛布を巻いてゆっくり歩いていた。工場のそばの木造の建物の中から、「水をくれ」「助けてくれ」の声がいくつも重なって聞こえた。道路がふさがれ、橋が燃え、血で染まった川を歩いて渡り、山の中に逃げた。山の上から広島の町を眺めた。黒煙がたくさん上がっていた。学徒動員されていなかった1年生400人は全員死んでしまった。 中村先生は自身の被爆体験を「風化させたくない」との一心で、道被爆者協会副会長を務め、道内各地で語り続けてきたが、昨年手術をしたのを契機に講話はやめたという。
やがて診察室で私の名前を呼ばれて、血液検査の数値を聞いた。肝炎やウイルス感染なく、どの項目も正常値にあり安堵したが、偶然に中村先生に会えたことの方がうれしくて、その日は先生との会話を反芻し、38年前の高校時代の自分を思い返していた。
◎プロフィール
会いたい人がいても、いきなり訪問することに迷う。偶然の再会はその機会を与えてくれる。