四十三年前
2013年3月25日
まちの図書館で本を借りようとして玄関にはいると左側にお知らせのパンフレットが並んでいた。その棚に「高橋揆一郎の文学」という文字が見えた。手にとると、北海道立文学館での展示会のチラシだった。
作家・高橋揆一郎氏は、2007年に亡くなっている。歌志内で抗夫の家に生れ、40代初め、札幌の文芸同人誌「くりま」に加わり、小説を発表。炭抗町などを舞台に北の人々の悲哀の営みを描いき、『伸予』で芥川賞を受賞した。展示会では、その文学世界とともに、イラストレーター・漫画家としての一面も紹介しているようだ。
高橋揆一郎氏は漫画家の時代もあった、と思いながら、にわかに頭によぎってきたことがある。
私が札幌に出て、勤めていたのが「財界さっぽろ」という情報誌を発行する出版社だった。そこでデザインの仕事をしていた。広告を制作し、記事のイラストやレタリングをしていた。
制作といっても営業部に属していた。広告の締切を営業の人たちが守らないので、4階の編集部に私の机が移動することになった。二十歳の若造の私の催促では、営業の人たちもなめて、つい締切がルーズになりがちなので編集部で広告の締切りに目を光らせるというわけだった。今考えると、編集部の扉を開けて広告の原稿を持参する営業の人々も肩身がせまかったのではないかと想像する。編集部に移ってから編集会議や記者の雑談をそれとなく聞くのも楽しみだった。
ある日、三田常務と編集長が会話を交していた。「この人は歌志内に住んでいる漫画家だ。まだ知名度はないが、うちの本に載せて、なんとか育ててゆきたい」と常務の話していることばが耳に入ってきた。その方は本名が高橋良雄といい、のちの小説家高橋揆一郎氏であった。
高橋揆一郎氏は、2代目の神田日勝美術館長で、その美術館の事業には私も何度か顔を出していたが、私と高橋揆一郎氏とは会う機会はなかった。会うことができたら、編集室で三田常務が漫画家として高橋良雄を育てたいと評価していました、と伝えたかった。
埋もれた才能は自ら掘り起こすものかもしれないが、誰かの支援やひいきで表現者は発掘され世に出てゆく。
私もまた、漫画家にあこがれながらデザイナーとして生活をしのいできた。同時に散文の表現にひかれて「文楽」や「ランプ」の同人誌で文学修業もつづけた。さらに、藤原てい講師のエッセイ教室で学んだ。北海道新聞の新蔵報道部長が私のエッセイを読んで「防風林」の執筆者に加えてくださった。数年後に須賀報道部長から、北海道新聞の名物コラム「朝の食卓」の執筆を依頼された。その道のりは幸運だったともいえる。
◎プロフィール
寒く雪の多い冬でした。それゆえに春の陽光はやさしく自然の命が芽吹く。厳しい冬よりも春のような人間でありたい。