はるかなる萩野(後編)
2013年6月10日
いくつかの用事が終わり、翌日、集落を散策に出かけた。
歩きながらかつて少年時代の父は、この道を歩いていただろう、この樹に触れていたのかも、などと眼で、手で、どこか匂いを捜しながら思いを馳せていた。
父は、小学校を卒業すると口減らしで萩野から米沢へ行き、醤油工場に奉公しながら独学で化学の勉強をしていた。千葉の陸軍歩兵学校に入学し、後に東京で陸軍の化学研究員として仕事をしていた。終戦により復員するもそれから渡道し、小樽で食品化学の研究所に入ったが終戦後の混乱のさなかで仕事にならず、帯広にやって来て注文洋服の外交の仕事を創めたのだった。
ぼくは東京から帰郷して父と一緒に仕事をはじめたが、これから外交を覚えなくてはというときに父は脳梗塞で倒れてしまった。ショックを受け、聴力の弱さと口下手でだんだんと落ち込んで酒浸りになっていった。そうして父は倒れて十四年目に遠くへと旅立ってしまった。
なさけなかった。何ひとつ親孝行出来ず、ずっと後悔に苛まれてしまっていた。
山の方から幅二メートルくらいの細い萩野川が流れていた。岩などの段差の下の水溜まりは四、五十センチほどの深さか、透き通ったきれいな水だ。サンショウウオやカジカなどがいるという。
舗装道を行くと大きな交差点に差しかかった。両側には何本もの巨木が高くそびえ、右側の道は白鷹山山頂へ行く道である。その角には杉などの大木に囲まれるようにして山の神を祀る古い社殿があり、時の流れに風化されていた。それらの隣は霊園である。
反対側の左側へなだらかに下っていく途中には、公民館、消防詰所、JA置賜支所がある。公民館の少し裏手には、下の山門から本堂へと急な石段を昇って行くと開基三五〇年の真言宗泉福寺がある。
通り道を、畦道を、ゆっくりと歩いてゆく。車も人もときおり見かけるだけで、静まり返った世界に心做しか緊張感も生じる。空き地や朽ちた家々の近くなどには、欠けたり色褪せたりして文字も判読出来ない古い墓石を見かける。いまも誰かの御霊がそこかしこにいるのだろうか。
西の彼方には残雪に輝いて威容をなす西置賜の「朝日山地」の山々が見える。頭上では雲ひとつない真っ青な空がどこまでも突き抜けていた。春のまだ冷んやりとした風がゆるやかに吹いているが、空間で陽の光が青白く耀きあふれている世界は幻想的な光景でもある。萩野の四月だった。
道端で立ち止まって束の間、眼を閉じて佇む。開けるとまぶしく、そして、
「あっ…」となった。
突如として父が八十年以上も前の小学生だった時の姿で現れ、側を歩いているような錯覚がしてきた。鼻の奥がジーンとなってきた。口の中でかすかに、
「父さん、ぼくは至らぬ息子だった…ぼくは母さんと元気に暮らしております」と声なき声がした。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。