はるかなる萩野(前編)
2013年6月 3日
亡き父の郷里である山形県白鷹町の山村へ、母と二人で、寝台列車と東北新幹線とさらに高速バスに乗り換えて行ってきた。御先祖のお参りと親族への挨拶をしたかった。長いこと訪れていなかったが、帯広に住むぼくにとっては父からつながる根のふるさとでもある。
山形市から三四八号線を途中で右へ滝野萩野線に入って行くと、そこは周囲が山々に囲まれた小さな集落「萩野地区」である。
学究肌の父にとって、ぼくはあまりいい息子ではなかったのかも知れない。たわけたことに父と取っ組み合いのケンカをして蹴ったこと、家業を継いだが器用ではなく至らなかったせいで仕事が上手くいかなかったことなど、たまらない思いだった。
少し痩身の父は、いつも何をするのでも静かで淡々として素朴な趣があった。青年時代は化学の研究をし、クラシック音楽が好きで、のちに囲碁を得意としていた。父はどんな想いで山形を離れ、東京そして終戦後に北海道にやって来たのだろうか。
いろんな思いのなか、本家のお位牌とお墓に深甚なる想いでお参りをした。親族に会えて懐かしかった。伯父や叔母たちの顔には長い人生を生きて素朴な風情もあることに、気持ちが潤んできた。
隣町の長井市に住む下から二番目の妹のとしえ叔母は、何度もぼくの顔を見ては、
「お父さんにそっクリ! ほんとにそっクリだ…」
と、二回も言った。その言いには叔母にとって、兄が萩野を離れてからやがて遠く北海道に渡って帯広で暮らしていた長年の日々に対する思いのようなものでもあるのを感じてならなかった。
かつて農業をやっていた竹田利夫叔父宅に泊まることになった。婦人の筆子叔母は父のいちばん下の妹で、やはりどこか父にも似ていた。従兄弟の一幸君そして嫁の貞子さんとの一家四人で暮らしている。
奥の客間の和室で叔母さんと母とぼくの三人で一族のことなど積もる話がつづいてゆく。内側の障子窓を開けると、水田の向こうに集落や彼方の美しい山々が見渡せる。
一幸君夫婦が夕方、それぞれ勤め先から帰ってきた。貞子さんが叔母さんと共に甲斐甲斐しく食事の用意をしていた。台所のテーブル席に皆が集まり、歓迎の夕べを開いてくれた。御飯はこの地域で獲れたお米で粘り気もあってとても美味しく、また所狭しとたくさんのご馳走に恐縮してしまった。
一幸君のいろんな話題がおもしろく、何よりも魚がことのほか好きらしい。ハッカク、ノドグロなどぼくでもあまり口にしたこともない魚の話しがエネルギッシュに溢れ、煽られていった。なんだか彼は眼の前で、ハッカクを盛んに食べつつ話ししているみたいな感じに見えて、可笑しい。みんな明るくて仲が良くて楽しい。母も嬉しくて居心地が良いのだった。
家族というものの堂々とした根幹がそこにはあった。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。