「みちや寿し」の親方
2013年7月 8日
小京都といわれている飛騨高山の春の夜。国分寺通りから横にちょっと入ると、木造の古い建物の寿司屋がある。「みちや寿し おきむら家」で、三代目の親方、沖村道也氏がやっている。脚本家小山高生氏に紹介された店で、高山に来たとき時間があれば顔を出す。
元気かな、とガラス戸をガラガラと開ける。
「あ、いらっしゃい」
親方がカウンターの内側で笑顔を見せていた。
「お久しぶりです」、と挨拶する。
となりでは五十代になった子息の哲也氏もにぎっている。彼は銀座「久兵衛」で修業した男で、のちに四代目になる予定なのだ。
みちや寿しのにぎりは、小さめで上品さと上質さがある。魚介ネタはどれもじっくりとした味わいぶりがあって気持ちが満ち足りてゆく。鮨飯は口に含んで咀嚼しているときの旨さと香りによる雅やかさがある。食べる側から惹き付けられてゆく力があるのだった。
親方と少し話しする。
「海から遠い飛騨の高山で、おいしい鮨や魚料理を提供していきたい」
質朴に語るそれは、熱く伝わってくる。
親方は百六十八センチの痩身にて顔は薄っすらとした無精ヒゲで飄々とした感があり、白い半天姿の内側には真っ赤なタートルネックシャツを着て愛嬌さもある。意外なことにスキーの名手にしてスキート射撃はかつて日本代表の一人として世界選手権にも出場しているのだった。
客との間合いに存在の力があり、相手はどういう客かそれによってこちらは何をどう提供してゆくか、という相対的な趣がある。
五指がシャリをすくってにぎり揉みしつつ、もう片方の指先は視線の先にあるネタへ飛んではつまみ上げ、両手が合わさるようにしてにぎり寿しが造られてゆく。眼・腰・肩・肘・手・指・呼吸などから発するそれは、静かで軀の全体的な動きにわびさびも滲み出て実に魅力的なのだ。なんらかを見ているその透明な視線には、芯の強さのようなものが感じられる。
それらにおいては凛として香とか粋とかでもいうようなものがあり、見えざる気脈が伝わってくる。ただ者ではない。
思えば太陽や月や水などの光はあらゆるものの命をつなぐ輝きであり、人の眼の光は心の深層を照らし捉える耀きでもあるのだった。
にぎり寿しの次には、「これ…」と言いながら、蛍烏賊の酢味噌和えを少々よそった小鉢を眼の前に置いてくれた。ひと口いただいて、地酒をほんの少し口にする。間を置くと、今度は蕗の煮付けを小皿にちょこっと載せたものが出てきた。
粋がただよう空間から入り口の方をふりむけば、ゆるやかな飛騨路の風がいくぶん暖簾を揺らしていた。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。