新聞配達少年
2013年7月22日
作家の佐々木譲さんや山本一力さんは新聞配達をしていた経験があるという。それを知ったとき妙に親近感を覚えた。私も中学時代に新聞配達をしていた。佐々木譲さんとは中標津や帯広で実際に会って食事をしたことがある。別れた後で、新聞配達の体験を聞けばよかったと思った。
文を書く営みと新聞配達はどことなく似ている。文章はことばを積み重ねて原稿が仕上がる。新聞配達もまた一軒一軒新聞を届けて達成される。
朝刊の新聞配達は、起床するのが4時半で、眠気をおぼえながら新聞販売店に着いた。チラシ広告などを織り込んでから販売店を出る。まだ夜明け前の薄い暗いうちに、いつもの配達経路を歩きつづけて配っていると抱えた新聞の束が軽くなり、やがて配達が完了する。配り終えた達成感にひたりながら朝の光をあびて帰路につくのは心地よかった。
就職した私は、印刷所やデザイン会社に勤めた。デザインや編集作業だったが、コツコツと小さな仕事を積み重ねて大きな成果につながる。そのことを新聞配達のアルバイトから私は学んだような気がする。仕事もその成果は、いつも小さな完成の山を一気に仕上げたときに出来上がる。どんな仕事も地味で根気を必要とするプロセスの積み重ねである。
3年間の新聞配達で忘れられないのが芽室町が大火に見舞われたことだった。
芽室大火は一九六四年三月二十二日未明に起きた。町の中心・本通二丁目付近から出火し、強風のためにまたたく間に市街地の店舗や住宅などを焼きつくした。被災者数は八十九世帯だった。私の配達地域の一部が大火に見舞われた商店街だった。
芽室大火を報じる一面の夕刊や朝刊を私は呆然と見入っていた。罹災にあった店舗などへは配達ができない。しばらくは住宅もない木材が焼けたような臭いが漂う商店街を素通りした。並んでいた店が消失したが、すぐ近くにプレハブの店舗兼住宅が建った。禍い転じて福となす、で復興への勢いは市街地の近代化への道でもあった。
今でも、何かの折に自分が新聞配達をしていた区域の家屋や風景が懐かしく胸に浮かんでくる。それは庭に花咲く光景だったり、落ち葉を踏みしめてゆく秋だったり、胸まで積もった雪をかきわけてゆく姿だったりする。
それから三十六年後、その配達していた新聞に、私自身がエッセイや投稿を載せてもらったり「朝の食卓」を執筆をするようになるとは想像もしていなかった。人生に紆余曲折は当然だが、やはり自らの歩みを顧みると不思議に満ちている。
◎プロフィール
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。2004年「モモの贈りもの」エッセイ集発刊。晩成社と鈴木銃太郎の研究家。