塀の中のベースボール
2013年9月24日
歴史から学べ、といっていたのは亡くなった評論家の草森紳一氏である。若いときに聞かされた教えであるが、今もそのことばが耳によみがえる。
十勝の歴史に詳しい人の筆頭にあげるとするなら、やはり嶺野侑氏だ。今月その嶺野氏の「とかち学講座」が帯広図書館で開催された。予約の席を確保し拝聴した。
実に刺激的な内容であった。公演後に質問をし、感激した私は講師に握手まで求めた。嶺野氏は帯広市議を20年務めた。それ以前は帯広市職員から新聞記者に転身し、道政担当で編集部長を勤めた経歴があり、その博識は当然と思った。
大井上輝前(おおいのうえてるちか)の人物紹介が講演の主なる内容だった。最初は、聞いたことがある名前?と思いつつ大井上の功績がわからない。しかし、偉大な十勝を作った功労者であると認識し、その人柄にひきつけられた。
彼は明治25年「十勝分監」建設にあたって場所を帯広村に決定した大井上典獄である。当時は所長を典獄と呼んでいたらしい。
明治25年10月25日の大井上典獄の帯広村視察には、晩成社側から依田勉三、渡辺勝などが立ち合っている。勉三日記を開くと24日に大津で大井上典獄の視察を知り、帯広へ向かっている。
依田勉三は、明治16年に帯広村に入地したものの、大津への交通は丸木舟による十勝川往復だけで苦労していた。何度も大津と帯広間の道路開削願いを申請していたので、待望の道路建設決定であった。その道は「十勝分監」囚人たちの汗と涙で敷かれた路であった。
輝前は14歳のときに同郷の偉才武田斐三郎に学んだ。(砲術や築城、航海術など)その後、箱館奉行所が置かれると外国人の応接や国防の要員として務めた。諸学を身につけアメリカに渡り、3年間の見聞を広め、キリスト教の精神を身につけて帰国すると函館府の通訳として北蝦夷地詰めとなる。その後、釧路、三笠、樺戸の各集治監典獄を務めた。
大井上典獄は、監獄は囚人を懲らしめるためではなく、教化と更正のためにあるという信念があった。川湯の硫黄鉱の採掘に苛烈な労働を強いられていた囚人を大井上は政府とねばり強くやりとりを重ねて廃止させた。また、幌内炭鉱で囚人たちが危険な採掘に従事させられていたので、これも大井上は廃止させた。
また大井上はアメリカで知った野球を囚人たちの教化に役立てさせようとして道具をそろえて、彼らに野球を教えた。そんな施策に内部の反発があったといわれ樺戸典獄を大井上は退いた。
監獄でベースボール、これは小説になると思い、私はネットを検索した。だが、すでに本になっていて、著者は成田智志氏であった。
◎プロフィール
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。2004年「モモの贈りもの」エッセイ集発刊。晩成社と鈴木銃太郎の研究家。