むかしの正月
2013年12月24日
九年前に、父が亡くなった。その後、父が残した物置の片付けをした。大工道具箱の横に、臼(うす)と杵(きね)があった。餅を作るための道具で、もう使うこともない粗大ごみだった。しげしげと見つめていると、父が元気に餅をついていた年の暮れの光景がぼくの胸に浮かんできた。
父は夜明け前に起きると餅つきをしていた。その音で目覚めると、ぼくは布団から抜け出して茶の間に出た。父が杵を降ろし、母が臼の中の餅米を素早くひっくり返していた。やがて、母はつきたての餅を千切って餡を入れた。出来たてのアンコ餅を食べるのが愉しみだった。豆餅、よもぎ餅、角餅などが次々と台に並んだ。
元旦はお雑煮を食べ、母の手製の煮しめや黒豆やなますが食卓に並んだ。もちろん餅も食べた。元旦は出かけないで家庭で過ごした。二日になると祖父や叔父の家に年始にゆき白いのし袋をもらって喜んだ。そのお年玉で「少年画報」という漫画本を買った。自分に届いた数枚の年賀状がうれしく、同級生にポパイの絵を描いて返礼を出した。これが昭和のぼくの正月であった。
明治時代の人たちは正月をどう過ごしたのか。明治三十四年の依田勉三の日記を読んでみた。晩成社を率いた勉三は帯広開拓の草分けの一人である。
勉三は伊豆地方の新年の家長の習いで、起きるとかまどの薪に火をつけ、二宮尊徳の「報徳訓」を暗唱した。
サヨとトシは生花苗(大樹)、ヨシは函館にいた。(サヨは勉三の後妻でトシとヨシはサヨの連れ子)。やがて家人(従業員など)がそろうと雑煮とおとそで新年を祝った。
九時になると快晴の中、勉三は地域の学校で行われる「交礼会」に出席した。みな希望にあふれる顔合わせで、勉三もまた明るい表情だった。稲作成功の予兆を感じ、なおさらであった。昨年は途別水田が着手され、七反歩を試作、反四俵の収穫をえていたので心浮き立つものがあった。「交礼会」の帰りすがら勉三は八軒を年始まわりをして帰宅した。その後訪れた三客らを酒肴でもてなした。また夕刻、晩成社従業員の大村壬作宅に招かれてご馳走になり、大村の弾く三味線に華やいだ気分になり、勉三は深夜に帰ってきた。
雪は降るが暖かな二日の朝であった。
小作人らは十時ごろより集まり、昼時には大騒ぎとなって歓声は絶えず、午後三時に退散した。静寂もどった部屋で、勉三は年始状を書き始めた。
明治や昭和の正月を思い返し、それらの風習こそ、日本人を自覚する時と思うものの、平成の現在は便宜優先で簡素な正月になり、商業的イベントに変質してしまった寂しさも覚える。
◎プロフィール
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。2004年「モモの贈りもの」エッセイ集発刊。晩成社と鈴木銃太郎の研究家。