ご飯のおとも
2014年3月31日
私は下戸なので「飲みにゆかないか」と誘われることはない。だから私には酒呑み友だちの人脈がない。
その代わり「ごはん食べにゆかないか」と誘われることはある。そう誘ってくる人は私と話をしたがっているのが分かるので、できるだけ断わらない方針だ。
私はオフコンや電卓をたたいて事務職の仕事をして数字ばかり見つめている。だから、気持ちをゆるめて、時には無駄話を無性にしたくなる。
だが、話し好きといっても、あまりにも次元が低いのは困る。たとえば人への妬み嫉みなど単なる悪口などの類はノーサンキューである。お互いに会って会話に共感して話が深まるのは楽しい。「この人とは共通言語で話せる」と思ったときに、共感が多くなるのだ。
T氏と帯広の森にあるJICAレストランで会うことになった。彼とは年に3度ほどこんなふうに会っている。私は日替り魚定食を注文した。天気のよい日は、テラスで食事もできるが、窓の外はまだ肌寒い季節だった。
私は持参した原稿の束をおもむろに出し「この3年ほど、これに没頭してきた。あまり出歩かないで、時間があれば毎日パソコンに向かっていた。小説スタイルではなく、やはり依田勉三日記という史実にそって書いた」と説明した。
T氏はプリントされた文字の空白部分に私が何度も書き加えた推敲の跡を見て驚いた。
食事を終えて、エントランスホールに移動して椅子に腰をおろした。まだ、話し足りない心地がする。
すると、T氏は、「東京の就職活動で不採用ばかりがつづいて気持ちも滅入って帯広に帰郷した。親戚のいる厚岸へゆき、1日中海をみつめていたんだ」と告白した。
私はT氏と自分のことと重ねていた。二十歳で札幌の出版社に勤めていた夏、私は都会暮らしに疲れ仕事を辞めた。独りでバスに乗って石狩浜へゆき、1日中海をみつめていた。やがて、帯広へ帰ろうと思うようになった。
私は一枚のはがきのコピーをかばんから出し、T氏に差し出した。歌手、中島みゆきの筆跡である。帯広で取材したデビュー前の彼女からの礼状だった。
「中島みゆきの筆跡、T氏の筆跡に似ているよね。どう」と私はきいてみた。T氏は苦笑した。
はがきの日付は1975年6月。彼女は秋に完成する初のLPの制作に追われている……という文面だった。
T氏から本をもらい、私は伊豆から届いたお土産のおすそわけを彼に渡した。まだ春先の風は冷たいが、私の心にはそよ風が吹いていた。
◎プロフィール
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。2004年「モモの贈りもの」エッセイ集発刊。晩成社と鈴木銃太郎の研究家。