咲く・・
2014年4月21日
人から「ご出身は?」と問われると「神奈川県の小田原市!」と応えた。単に小田原だと「おお静岡県ですね~」と返ってくる。市川團十郎家の十八番(おはこ)「外郎(ういろう)売り」に〈・・御江戸を発って二十里上方、相州小田原・・〉とあるように、伊豆や駿河や遠江でもなく、昔で言う相模国(さがみのくに)なのだ。
お堀に掛けられた朱塗りの学橋(まなびばし)を渡ると、二の丸跡に建つ小学校の正門に桜の花片が舞っていた。祖母から贈られたランドセルを背負い、着物姿の母に連れられ潜ると、かまぼこ職人の父が仕事着のまま自転車で駆け付けて来た。さくらのたよりを聞くと真っ先に六十年近く前の入学式を想い出す。
いまは統合され校舎もなくなったが、「小田原城」とか「北条・・」の文字を目にすると躊躇わずに買うのは郷愁によるものか・・。ムック本の「北条五代戦記」をめくると、大河ドラマを招致しようとの動きが載っていた。小田原市役所の担当者に訊いたところ、スタートしたばかりで五月三日の「北條五代祭り」を軸に、北条氏が治めた関東の近隣都市と連携し推進するそうな。
戦国時代を描いた小説やドラマでは、秀吉の小田原征伐としか扱われず、籠城か開城か論議が紛糾し決着しなかった「小田原評定」の言葉は、いまも会議で結論の出ないときの例えとなってしまった。
かつて、北条氏の知名度は低かったが、近年は研究が進み戦国時代は北条早雲公から始まるとされ、卓越した民政を布いたこと。さらに中興の祖である三代北条氏康(うじやす)公を経て、五代百年に及ぶ城下町全体を含む総構えの城郭都市経営は、後の大坂城始め江戸城に波及したことなど評価が見直されている。
子供のころに楽しみだった町を挙げてのお祭りは五月に統一されたが、「明神さん」と親しまれた総鎮守の松原神社大例祭で、明治から戦前・戦後を通じ四月十四日~十六日に挙行され、神輿や山車を26ヶ町を挙げて繰り出していたのが懐かしい。
北条氏のあと、数代を経て城主となった徳川譜代の大久保家に仕えたのが遠祖。先年、天守閣で求めた江戸末期の「小田原城絵図文久図」の中に、祖母方の苗字を見つけたことは驚きであった。
もうすぐ小田原城のお堀端に、ツツジや藤の花など咲き誇るのが、目に浮かんでくる。
◎プロフィール
〈このごろ〉世上を騒がせたダミー作曲家を「佐村河内守(かわちのかみ)って珍しい名だ」と友人に話す。即座に「時代小説に嵌り過ぎ・・」と言われて苦笑い。