ぼくの街中でのエートス(居姿)
2014年5月19日
十勝平野の中心地でもある帯広は、ワシントン市に倣って碁盤目のように造られた町で、整然とした街並みではある。人々が集まる街には、その環境においてさまざまな人間の想いや営みがあふれて文化がつくられてゆく、と思う。
人という存在の大きさからして町の人口はたとえば百万人とかなどはあまりにも大きすぎないか。せいぜい二、三十万人くらいの都市がいちばん良いような気がする。
特に天気の良い日など散策するのは心地良い。街中で過ごすわけだから、ゆるりと行く。ただ歩いているわけでもなく、どこそこのギャラリーに入ったりまたはランチタイムで軽い食事をしたりもする。
五月を迎えてさらっと晴れ渡ったある日、街へ出かけた。駅を通って西二条通り、通称「大平原通り」に出る。
これから向こう数ヶ月のあいだの帯広は、一年でも最も明るく元気な季節(とき)を迎えるのだ。街の風情を眺めつつ歩く。空間にあって、空からの光、街の匂い、音、人々の笑顔と声、などのなかをゆくことなのだ。そうすることで自分の内側で、俗気、孤独、純粋さ、厳しさ、楽しさ、などが揺れ動いて自らの世界というものが創られてゆくのだった。
立ち止まり、顎を突き出したまま伏し目がちに前方を見遣る。一瞬、遠い昔の街の情景が垣間見えるような気もしかけた。とにかくちょっと休みたいなと思う。ところがベンチなど見当たらない。ないわけではないが、申し訳程度に小さいのが何箇所かはあるけれど。仕方がないからまた歩く。
整然とした清潔感のある街なのに、街というものの人が存在して創られてゆくという魅力には乏しさを感じてならない。そうすると何かのイベントが行なわれたとしてもそれは動物的消費にしか見えない。人が持つさまざまな性質から来る想いが、無機質の世界に味わい深く潤ってゆくことが必要なのだ。
歩道でそれなりに小さなテーブルと椅子があるといいではないか。時に汚れたりゴミなど出るかもしれないが、それは商店街の人たちによる奉仕的軽清掃があればほほえましいだろう。
以前、一ヶ所だけ、ある店の前に鋳物の円形テーブルと椅子があった。ぼくはときおり利用していた。しばらくして再び行ってみたら、それが撤去されていた。役所からクレームでも出たのかなと思ってお店の方に伺ったら、ゴミを捨てる人がいるのでかたづけた、と言っていた。心根の汚い通行人などいるものだが、寂しい話しだった。
一昨年の初夏のある日。真っ青な天空から陽の光があふれていて、件のテーブル席で休憩し、講談社文芸文庫『日本の童話名作選・現代篇』を読んでいた。
ビルなどの上部が空を区切り、見えている青さからふりそそぐ金色の光の下で、本から言葉とメルヘンの世界が持つ絢爛たる鮮やかさが湧き立っていた。街と人と自然と書物が、ぼくにしなやかで鮮やかな世界を見せてくれているのだった。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。
第二作品集、銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)が三月十四日に発刊されました。喜久屋書店、ザ・本屋さんにて、どうぞ宜しくお願い申し上げます。