探る・・
2014年7月22日
6月5日、京都からJR湖西線に乗り近江高島に着く。駅から山裾へ5分程歩き、織田信長の甥で大溝城を領した信澄が建てた大善寺を訪ねる。
文献に信澄の記述は乏しい。本能寺の変から3日後の6月5日、駐留先の大坂城千貫櫓で、明智光秀の謀反に加担したと疑われ信長の三男信孝に討たれた。その首は堺に晒され、首級も遺骸も混乱の中で打ち捨てられたのか・・戒名すらない。
太宰府天満宮宝物殿にある白い鎧は、所有者が織田信澄と伝わるだけで、福岡市の文化財広報でも然りあった。
今まで読んだものから信澄の記述をピックアップし、次に父方と母方で所縁のある人物を絞り込んだが鎧のことは見えない。探り始めて一年余り経ち行き詰まっていた時に「武将は結婚の際に舅から鎧を贈られる」と書かれた本を読んだ。その瞬間、天満宮に問い合わせた際に「木瓜と桔梗の紋が見える」と言われた言葉が閃いた。織田と明智の紋があるからには、光秀の娘が信澄に嫁いだことで一つ推測が湧いてくる。まして大溝城の縄張りは光秀であった。あの鎧は舅から贈られたものに違いない。
だが、娘の事跡はどの史料でも信澄室としか出てこない。また推測する。信澄の屋敷跡を安土城で視ていた。ならば本能寺の変前後、信澄の奥方は大溝でなく安土に居たのではなかろうか。信長の母、土田御前はお市の方やその三姉妹と共に安土に住み、本能寺の変以後は、信長の弟で信包(のぶかね)の居城がある伊勢に逃れたことが記されていた。信澄には息子が2人いて、奥方は祖母に同行し、鎧も持って行ったと言うのが第二の推測である。
この遺児の一人が、元服して織田昌澄を名乗り、紀州の藤堂高虎に仕えた。高虎は若い頃に信澄の家臣でもあり、伊勢と紀州は隣り合わせだ。このとき旧主の遺児を家臣としたと推測できる。やがて高虎は、豊臣秀吉の文禄の役で九州から朝鮮に渡り、昌澄も従軍していた。その集結基地は肥前の名護屋城であり、博多湾を経由していたとすれば・・しかし天満宮では高虎や昌澄が参拝した記録は無いそうな。では、昌澄が亡父の鎧を代理の者に持たせて奉納したと考えると辻褄が合うのではなかろうか!?
大善寺で、これらを纏めた推論を谷口義昭住職に伝えるとたいへん驚かれ、本堂の奥にある「織田信澄之霊」と書かれた位牌に案内され、境内にある「織田信澄慰霊碑」に手を合わせた。帰り車で大溝城まで送られると、篠突く雨になり、本丸を後に駅へ向かう頃、雲が切れた。「今日が命日の信澄公が、きっと喜んでいるのでしょう」と老師のひと言が心に沁みていた。
◎プロフィール
〈このごろ〉本と資料にCDが増え、床の上に置くようになった。世の中は「断捨離」だが、「無用の用」として役に立つと思うから集めてしまう。