まかない飯
2014年9月22日
私の知る範囲で読書家として思い浮かぶ人物は草森紳一氏で、東京のマンションで3万冊の本に埋もれて、2008年3月19日に亡くなった。わが敬い私淑する知の巨人である。
残された蔵書は東中音更小学校へ引っ越し、一部は帯広大谷短期大学の「草森紳一記念資料室」に展示されている。ほかに音更町の実家敷地内の書庫に3万冊の本がある。
草森氏は音更町出身で、柏葉高校、慶應大学文学部中国文学科を卒業後、出版社に入社したが、三年後フリーの物書きになった。
草森氏との出会いは、私が24歳で、草森氏が36歳だった。春に喫茶「川」で会って、港区の住所を教えられ、歓談できたお礼に手紙を出した。次々と発刊される草森氏の本を夢中で読んだ。ライトの建築論、画家ルッソー論、「江戸のデザイン」、テレビ論、ナチス「絶対の宣伝」など、どれも関心が強い分野で、まるで自分の嗜好に合わせた著作群だった。
2004年の秋、私は「モモの贈りもの」という初のエッセイ集を周りの人々の厚意で発刊できた。草森氏にもその本を送ると、師走にA4の封書が届いた。横80センチ幅の和紙5枚に筆字で感想が記されていた。
「遅まきながら、完読しました。面白かったですよ。一冊になって通読してみると、なるほど自伝になっています。こういう自伝(エッセイの集積)のありようもあるかと感心しました……」
草森氏は、翌年の3月に吐血し入院した。そのころの様子が、没後13冊目に刊行された「その先は永代橋」に書かれてあった。一人暮らしの草森氏は、友人の大倉舜二氏に付き添われ退院し、永代橋たもとの「シサム」という飲食店に寄った。尾形太郎、石橋潤志郎両氏が五月に開店したばかりの店だった。
大倉氏が「栄養が足りなくて倒れたから、何でもいいから彼に無理やりにでも食わせてやってくれ」と頼んだ。
石橋氏は草森氏の顔を見て、
「先生、僕ら昼の2時くらいに賄い食うから一緒に食べましょう」と提案した。そこから家族になったという。
賄い飯を食べて、代金を払おうとする草森氏に、二人は礼儀正しく、強く首をふって「賄い飯ですから、料金は頂きません。お気になさらずに」と断わった。
草森氏は思いがけぬ好意に破顔すると「わかった。そうさせていただく」と頭をさげた。下心のない親切、思いやり、なさけ。その「仁」こそ儒教における最高の徳目だ。彼らにそれを感じた草森氏は好意に素直に甘えたのだと思う。
そのページを読みながら、私は泣きそうになった。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。ブログは「よしだルーム」。