No.1,167
2015年1月19日
年明け早々フランスではイスラム指導者をパロディ化された事への報復だと、雑誌社がテロ銃撃急襲受け、逃走後立て籠る犯人を制圧も17名の犠牲、進行ライブ放送を世界が注視。今回はイスラム国とは似通いつも、他アルカイダ系犯行らしく。受けてパリで諸国の指導者も参加し反テロ大行進、数百万人が怒りの抗議、当事者のフランスは取り分け「テロとの戦争宣言」なる大物騒な展開へ。
こうして地球上の人間達は次から次へと、「アチラが収まれば次はコチラ」と、よくも争いの種を見つけ育てるもので、これは人間の生物としての生来の持つ性質なのでしょうか。敵を探し出し、さもなくば仕立ててさえも争いたがる処あるのでしょう、日本での朝鮮人に対するヘイトスピーチの乱暴さをテレビの報道で見ていても重ねがさね。根っこには経済生活に基づく、移民の流入により元々国民達が不利益を受け生活が苦しくなったと原因付け、排他的ナショナリズムで高揚の末叩く。世界中からイスラム過激派へ走る若者も日頃の排斥感から居場所を求め、さも救いの入り口とインターネットの手招きから引き寄せられ。他方、オウム真理教に集った信者達の様に「自分で判断行動」しなくて良いある種、身を委ね従う事に出る快楽ホルモンみたいなものも人間は持ち合わせているのか。
何時の世も最小単位の家族や地域社会でも揉め事は当然存在しますし、国や民族や宗教間の争いを無くし「皆で仲良く」なんて絵空事かもね。歴史から学ばないし、原発とか資源環境問題とかの対応も結局は、「自分が、自分の時代さえ」を越える事は無いのかしら。「成るようにしか成らない」と開き直れば楽になれども、又、ニュースに触れると「わかっちゃいるけどスピーキング」モードに立つ事に、「せめて意味が有れよ」、と念じ。
案外一年を「今年はどんな年になるのかな」、と他人事に傍観していたが「今年はこんな年にする」と能動的に関わり生きて行く熱を何故かじわじわ感じつつ。