札幌で
2015年2月23日
このところ札幌へゆくことがあっても札幌ドームで野球観戦して帰るだけだった。したがって駅で降りて地下街や、すすきのを歩くことがなかった。
1月31日に、久しぶりでJRに乗って札幌へゆくことになった。午前9時発とかち4号は11時半に着いた。大丸で店内を見てまわって、後から来る2人を待った。3人で地下鉄のキップを買って、中島公園で降りた。
向かうは北海道立文学館での特別展示室「小檜山博の文学」。2時から講演会があるので、会場に入った。今まで小檜山氏の講演は10回ほど聴いている。作家の少年時代の貧しい時代がいつものように語られる。「地の音」「雪嵐」の世界だった。
講話は、学校での映画鑑賞に学級委員長として引率しなければならない博少年が10円がなくて映画鑑賞を休んだ。10円がない、10円のおそろしさ、と小檜山氏は力説した。「ああ無情」という映画だという。映画館を見下ろす小高い山で博少年は、同級生が映画館に列になって入ってゆくのを見下ろしていた。草薮に仰向けになり、空を見て時間をつぶした。私には、博少年がどんな気持ちで流れる雲を見ていたか理解でき、胸に迫る切なさを感じた。
私は20代から活字中毒のように本を読み始めた。昭和の作家、明治の作家、私小説に評論、随筆と。三十代半ばで「地の音」を読んで、衝撃をうけた。私の人生と重なった。以来、氏の本を読み始めた。シンプルな文にひかれた。同人誌に入り、エッセイ教室へ通い、文章修行が始まった。ワープロを買い散文を書きつづけた。
1986年3月に小檜山博文学支援会が発足した。「帯広薄馬鹿の会」だという。奢りや虚栄をすてれば馬鹿の境地に近い、もともと私は素朴なバカに憧れていた。そう思って会員になった。
小檜山先生を囲んで帯広で鹿追で札幌で懇親会やカラオケ大会を開いた。その場で、小檜山先生、と呼ぶと「先生というのやめなさい」と叱られた。それから小檜山さん、と呼んだ。
講演後に、小檜山文学の特別展示を見た。写真や生原稿を見ながら、ありがとう、と繰り返していた。小檜山文学こそ私が生きる力を得た源だった。
帰りは、中島公園からすすきの方面へ一人で歩き出した。左側に赤いのれんが目についた。「芳蘭」というラーメン店だ。たしか、すすきのの「エンペラー」で小檜山さんと呑んで語って、その帰り、寄ったのがこの店だった。私はのれんを潜った。あの日の夜を思い出して、ラーメンを食べた。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。エッセイ集「モモの贈りもの」発行。晩成社の研究家。