冬の日々、人と文
2015年3月 9日
生きていていちばん疲れることは、人と関わることである。自分が至らないせいで異なタイプの人間に辟易してしまう。金魚自身はどうなのかは知らないが、まるで水面で口をパクパクしているような気がしてならない。とにかく器用でないし上手くこなせないこともある。
先日、然る団体の新年会に出席した。皆ともに楽しく盛り上がってビールも増えるうちに、幹部の某氏と話して彼の論理的ではない言動が時にあることを述べた。そして自分が徐々にうるさくなってきていることに嫌気がさしてしまった。ま、酒席で話す内容ではなかったけれど。
その翌週末の夜。友人のKと酒食を共にするべく居酒屋に入った。彼は若くして両親を相前後に亡くし、音大を目指していたが家の事情で断念し、精神的にも苦労してきたのだった。音楽と本が好きで、ベートーベンみたいな髪型を少し短くしてメタルフレームメガネの奥の眼はジロリとしている。彼は酔うにつれて何かとうるさくなり、ウイスキーと鶏肉の脂とが混ざったような濁った感じのするアクの強い話しぶりになる。
翌朝、目覚めると憂鬱さが漂って精神衛生上よろしくない。ぼく自身どうしようもない至らない人間なのだから、他人のことなどとやかく言えるわけがないのだが。
数日前の夜半、ノンフィクション作家渡辺一史氏『北の無人駅から』(北海道新聞社刊)をようやく読み終えた。あまりにも凄い作品で、しかも7章に亘る800ページ近い大作でもある。徹底した取材に裏打ちされた内容で、それぞれの無人駅を通して、観光、農業、漁業、過疎の町などに関わる人々を描いている。驚くのは、ここまで書いていいのかと思うほど相手に肉薄し踏み込んでいることだ。そして何よりも作家としての彼自身が取材対象のありように対して苦悩しているということが伝わって胸を打ってならない。書くということの厳しさに圧倒されてしまった。
その反動で、いったいぼくは何なのだろうかと情けない思いがした。
自分を素のままにするには自然界に対して向き合うのがいい。そうしてゆくと、それは風雨に揉まれて濁っていた川が後に澱になって透き通ったみたく静かできれいな心地になってゆくのだ。自然と関わることが一番いいが、しかし人がいないと生きてはいけないという二律背反の狭間に立っている。
ある日の夕暮れ時、独りで静かに飲むべく街へと向かう。九天の空はラピスラズリの色に染まっていた。満天の空は晴れ渡り、立ち止まって暫し頭上を見上げると、俗世を忘れて気が遠くなりかける。寒さに凍えて身も心も縮み、どこか寂しく哀しさのようなものがもたげてしまうが、やはり自意識も歩きも前へと向かっている。白い息を吐きながら一歩一歩と歩を進めてゆく。自分も生きているのだな。