しなやかな厳しさ
2015年4月13日
かつて東京で勤めていた会社の後輩でもある松澤氏はその後転職し、長年勤めていた牛乳販売会社を退職した。そして新たに介護タクシーサービスの仕事を立ち上げ、軌道に乗せて6年になっている。人は独立したいと思っても、なかなか出来ない。いままでの仕事には慣れがあり、それを辞めて新しい仕事を、それも事業を始めるとしたら、そう簡単には踏み出せないもの。
昨秋に上京したある日の夕方。誘われて早稲田通りの「和食もめん屋」に初めて入り、酒肴を共にした。アイスホッケーのスティックを膨らませたようなカウンターと背後にL字型の小上がりがあり、周囲は、木板、モルタル風、セメントが交互に貼った壁になっておしゃれ感がある。カウンターの内側で料理がつくられ、接客係と共に4、5人のスタッフが動いていた。自家製豆腐や刺身盛り合わせほか美味しく酒もはかどる。
彼は、人と接するときも素直に捌けたようなところがあり、そのありようにこちら側も引き込まれてしまう。言ってみれば自然体さがあるのではないか。だから何の仕事でもやっていけるだろうなと思う。それから比べると洋服業をやっている自分は未だ未だだな。
「…オレね、仕事は低迷している。いい時もあったけどいつしか下がって仕事量が半分になって辛辣だよ。言いたかないけど耳が少し弱く口下手なのも関係しているだろう…努力しかないな」
相手は、社会的地位のある方が多く、接することで緊張感などストレスもそれなりにある。もちろん失敗や迷惑をかけたこともある。それでよくやってきているなとも思う。
「…どうあれこの仕事しかできないし、またやっていかなくてはならないから這ってもズッてもやらなきゃいけない。仮に仕事量が年間で50%くらいだとしたら、もっと上げていかなければならない。どうするか…新規開拓も必要だろうな…それで新たに動き出して、あちこち芽が出てきているところなんだ」
彼は目の前のカウンターから少し先へと世界の広がりでも見ているふうな表情をし、グラスの冷酒を飲んで振り向いた。
「でも、思うけど、いまあるお客を大切にする方がいいんじゃないのかな。その方がさらに力になっていくと思うけど」
「もちろんそれは大事なことだ…。」
「実はオレ、普通では考えられないような方から仕事の依頼がかかって来るんですよ。たとえば日本で有名な食品メーカーの会長夫人から、あるいは著名なコンビニ業界のオーナー、または元総理だとか…どうしてうちみたいなところに電話が来るのかと不思議なんだ。
オレは営業なんてしたことないし…でもよくよく考えてみたら、自惚れるわけではないけれど、いつもお客さん一人ひとりを丁寧に大事に扱わせてきたつもりで、それが知らないうちに伝わってきたのかなぁ…」
「すごい話だね」
沈みがちに考えて積極性に弱さがあるかもしれないような自分と目標に向かって進んでいる彼との差は大きいだろう。
辛口の酒は旨くかつ厳しさも感じられる味がした。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)
銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)
喜久屋書店/ザ・本屋さんにて発売中です。