生きつづけた勉三
2015年6月22日
吉田政勝氏が『流転 依田勉三と晩成社の人々』を上梓した。これはすでに出ている依田勉三物の書籍を史実に照らし合わせて調べ、誤りなどを正して書きつづけた労作で、まるで太安万侶みたいだ。
読み進めるうちに、吉田氏が書きうる衒いのない内容に納得してしまった。同時に読んでいると、重い気流のようなものが胸の内側に流れてきてならない。
─横浜港から函館ゆきの「九重丸」が出港した…
その書き出しで始まる勉三(一八五三─一九二五)の人生は、そのご波乱に満ちた壮絶な開拓であり、まさしく艱難辛苦の極みであっただろう。さまざまに調べながら執筆しつづけている吉田氏にとっても、居た堪れない思いだったに違いない。
5月7日、ぼくは仕事で大樹町へ出張した。ついでにホロカヤントー線にある「晩成史跡公園」を久し振りに見に行ってきた。勉三の当時の家(復元)があり、小さな丘には祭牛の碑、墓石、記念碑、案内掲示板などがある。さわやかに晴れ渡った青い空の下、海や沼が近いせいかゆるやかな風が冷んやりとしてそれがいくぶん身を硬くさせていた。
明治19年(一八八六)6月、依田勉三は下帯広を出てこの地当縁村生花苗にて牧場開拓を創めたのである。
今から130年以上前の明治15年6月、勉三は鈴木銃太郎と共に横浜港で乗船し、やがて函館に着いた。それから札幌で県庁を訪問して開拓交渉の後、歩いて勇払、日高山脈を越えて海岸線沿いに行って大津に辿り着く。そこから十勝川を丸木舟で遡り、7月15日オベリベリ(下帯広)に到り、適地と決定して開墾に着手した。それから4年後、経営上の見解の相違から二人は別々に開拓することになり、銃太郎はシブサラ(芽室西士狩)で再出発し、勉三は弟文三郎らと生花苗にやって来たのだった。
冷気は勉三の不安や狂気を思わせてならない。10歩20歩と動いただけで、辺り一帯を歩けなかった。当初からのすさまじい苦闘の開拓ぶりを想起し、疲れてしまって何事かを考えることも出来なかった。現代の十勝平野は美しいロケーションが広がっている。遥か高い九天の大空と光あふれる大地、地平線と緑の豆類畑と金色の小麦畑、そして冬の雪原など。そこから100年以上前の十勝など想像も出来ない。
晩成社の事業はことごとく失敗だったと言われるが、そんなことは問題ではない。勉三の存在は十勝においてあまりにも大きい。
案内掲示板前の小道の少し先は下りになって見えず、降りて行って右へ曲がると勉三の家がある。その小道の先が切れて見えない辺りに目を凝らすと、155センチの小柄な依田勉三がグングンとせり上がって現れて来るような気がしてきた。
「…勉三さんは多大なる足跡を残されました。十勝はいまこんなにも発展してきています。ありがとうございます」と想いの声が軀から発した。
車を走らせた。日々生きている十勝人にとって、この十勝の下地ではどういうことがあったのかの歴史を知ることは重要なのだ。『流転─』は必読書である。歴史を知ることは、生きることと自分を識ることでもあった。
◎プロフィール
帯広在住。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)
銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)
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