「理由があって」
2015年10月12日
秋の夕方少し前頃の空には、どことなく夏の名残があって何ともいえない風情のときがある。日中は快晴でその勢いが夕方近くなってさわやかさがただよっていた。住宅街も繁華街もそれはどこか銀色っぽい明るさにも包まれ、なんだかヨーロッパ映画にでも出てくるような芸術的な街の空間光景にも感じられて気分がいい。という理由により、
「ちょっと出掛けよう─」
原稿を書いていた机から立ち上がって箪笥の引き出しを開け、極薄グレーの綿パンツを出して穿き替え、白いスポーツシャツに薄手の青いジャンパーを羽織る。小さなショルダーバッグには文庫本とメモ用紙と万年筆とボールペンが入っている。
裏口から出かけるのはなんだか後ろ暗い感がある。自分はそんな立派な人間ではないためか、裏から出る方がいいのか。ま、裏から出るのは、街中というかネオン街というかがその方角にあるからなのだが。とにかく理由が出来るたびに出掛けてしまうところがある。仕事が上手くいったので─。夕焼けが美しかったので─。桜の花びらの散りゆく曲線が情念を秘めて美しかったから─。天高く青い空に風情があったから─。などとその時々においてわりと自然景観に感興が湧き起こることがあり、心地満たされてソワソワしてしまうのだ。
出て、歩き出すと、
(いや、やっぱ、出掛けない方がいい…戻れ!)
いちいちそんなことしていたらキリがないな、と思うと歩く速度がスローになり、ためらい歩きがちょっと止まるのだが、5秒もしないうちにまた歩き出す。身体は後ろへ振り向いている気持ちが50パーセント以上はあるのに、爪先は前へと交互に進んでいる。そうこうするうちに街中に来てしまった。
ときおり行く長屋の真ん中にある店の目立つ看板が眼に入り、暖簾をのけ、戸を開けてしまった。気立ては優しくて面倒見がよくて口がワルイというキャラのかあさんと目が合い、入り口左側の忘れられたビニール傘が18本以上だかが入っている円筒型傘立ての側の椅子に腰かけた。何組かの客が入っていた。
「あのね、いまちょと忙しくて、むずかしいのは時間がなくて出来ないからね」
「今日は何が旨いのかな…」
すると左手の人差し指と中指の間にタバコを挟んで口尻を両側に引き、
「うちはねぇ、アイソわるくたってなに食べてもうまいんだよ」
細身のかあさんの顔は眉間に縦皺があった。ポークチャップ、野菜炒め、ホヤ酢、塩辛、マッシュポテト他、とにかく期待外れがない。ぼくはそんなに飲めない。以前はかなり飲んでいたが今はビール一本に、おかずは1、2品あれば出来上がってしまう。今日、気分がよかったことをいっとき振り返る。そして持参した夕刊に目を通し、メモ用紙に何かを書くなどして、2時間もしたらまた家に向かって歩いて帰る。
飲むことが先ではなく、感興が先ではあるのだ。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。
著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)
銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)
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