中伊豆で
2015年11月23日
伊豆の旅はつづいていた。
10月10日、熱海からJRに乗り、2時すぎに三島に着くと駅の外に出た。携帯を手に持ち、初対面の原さんにつないだ。「私は駅の外です」と伝えた。駅から携帯を耳にあてて出てきた男性がいた。「原さんですか?」と声をかけた。
あいさつが済んで、駐車場へと歩いた。原さんの車は2人乗りのフォルクスワーゲンである。私は前の右席に座った。顔も知らない原さんと会うことになった経緯にふれたい。
定年後、私は余暇ができたので、帯広の開拓の祖依田勉三の日記を読み、知られざる史実を描いて、今年の3月末に「流転・依田勉三と晩成社の人々」という新書判を自費出版できた。
その本が「静岡新聞」で紹介され、伊豆方面から注文があった。その一人が原興一郎さんだった。私は電話口で「静岡新聞の私の本の紹介記事を見ていないので送ってもらえませんか」と図々しく頼んだ。即座にこころよい返事があった。原さんにお礼の手紙を出した。
やがて夏が過ぎたころに、伊豆松崎での講演依頼がきた。原さんに会えればと連絡をとった。すると「車で周辺を案内します」と言うのだった。その後、中伊豆の観光マップや資料が送られてきた。
そして三島で原さんと会った。車は50分ほどで「パノラマパーク」に着き、ゴンドラに乗り頂上で降りた。眼下の街や遠方の天城山や富士山も見えた。車に戻り沼津へ向かった。「御用邸西附属御殿」を見学し、千本浜公園を眺め「三嶋大社」で参拝し、日が暮れて三島の料亭に案内された。庭園を通り、部屋で原さんと向かい合って座ると、資料を渡された。清水町の「文化協会誌」に書いた彼の文章があった。60年ほど前に清水で誕生した大東製機製の伝説のオートバイについての記録文もあった。彼は郷土史家でもあった。史実物を手がける苦労を共有し相手への尊敬の念が強まるのだった。
コース料理に箸をのばしながら、お互いに現状の生活などを語った。困難な仕事を克服してきたことなどを聞いてうなずいた。私もまた自らの信念を通して理不尽な思いを味わっていた。打ち解けて話をしていると「初めて会った気がしない」と原さんがつぶやいた。
帰りしなに「ここの会計は折半に…」と私が言うと、彼は「いいから」と言下にさえぎった。数々のもてなしに恐縮するばかりだった。
翌朝、ホテルに原さんが迎えにきてくれて、三島駅まで車で送ってくれた。ホームまでついてきてくれて、列車の窓越しにお互いに会釈した。私は手を小さく振り、ありがとうございます、とつぶやいていた。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。「流転・依田勉三と晩成社の人々」刊行。