心はどこに
2016年3月 7日
悲しい時、傷ついた時、胸がチクリと痛む。嬉しい時は笑顔で両手を胸に合わせ、ホッとした時は胸をなでおろす。「心の中に」という言葉を発する時、自然と手は胸のあたりにいく。心を育てる、心を静める、心が痛む。普段私たちが何気なく使っている心とは何だろう。体内に心という臓器はなく、では心という文字が付いた心臓が心なのかと言われればそうではない。それでは心はどこにあるのだろう。
人間の言動は全て脳が司っている。脳科学の説明は到底私になんぞできないが、運動や感覚、知性、感情などの動きは脳内の複雑な神経伝達によるものだ。恋をして胸がキュンとなるのも脳内物質の伝達による仕業だよと言われたら、ロマンチックな気持ちもちょっと冷めてしまうだろうか。
私の働いている職場は障害者の就労の場を提供する福祉施設だ。三障害と呼ばれる身体、知的、精神の他、難病を抱えた人も利用でき、現在二十人ほどの利用者がいる。開設当初は身体障害者が大方だったが、その後入所してきた利用者の殆どが精神の障害者手帳を持つ人だ。ここ十年の全国の障害者別人数の推移は身体と知的の数はほぼ横ばいか微増に対して、精神障害者の数は年々増えている。街に心療内科、心のクリニックなどの看板が増えていないだろうか?
精神の病が大きく誤解されていたのは過去の時代だ。精神分裂病という病名はその最たるもので人間としての尊厳を損ないかねない非情なものだった。二〇〇二年統合失調症と改められてから少し印象も和らいだのではないだろうか。全国の精神障害者家族連合会が精神分裂病という名称は、人格否定的で世間的に恐怖さえ与えるとの理由で、名称変更を要望したのは一九九三年。障害者基本法が成立し、精神障害者が明確に障害者基本法の対象に位置付けられた年である。
また、増加の一途をたどり社会問題にもなっているうつ病も徐々に知られてきて、企業の対応姿勢も変わってきつつある。うつ病は心の風邪と表現されることもあるが私はそんなたやすいものではないと思っている。どんな病でも当人にしか解らない苦しみがあるだろう。
精神という言葉は人の心を意味している。つまり精神障害者は心を病んだ人。心は捉えどころのない神聖なものに感じるが、しかし先ほど述べたように、脳の働きである。適切な投薬やリハビリ等で社会復帰が可能な人はたくさんいる。ノーマライゼーションなどと大仰な事は言わない。知ることから何かが始まれば、それは素晴らしいことではないかと思っている。
◎プロフィール
●作者近況
さえき あさみ
弥生三月。足元は雪解けで毎日長靴着用。
早く春のコートに袖を通したい。