ふぐよ、福よ
2016年4月 4日
高級食材の一つにふぐがある。福にかけて縁起を担ぎ「ふく」と濁音せずに呼ぶこともある。本場下関産のものをふく。いやいや下関に限らず大阪以西ではそう呼ばれているとか、明確には解らない。
漢字で書くと「河豚」。河の字は中国で食されたふぐが淡水魚だったことから。膨れた顔が似ているとか、釣り上げられた時発せられる声が豚に似ているから豚の字が当てられたとのこと。「ふく」という験かつぎの心地よい響きの呼び名とのギャップが大きく面白い。
数回冷凍の刺身や鍋セットを購入したことはあるが、うなるほどのものではなかった。その都度「この値段ではこの程度の味なのね」と変な納得とともに感動もなく後片付け。もちろん絵皿を透かして並ぶ刺身など食べたことはなかった。
「ふぐは神格化されている」と言った人がいる。調度の整えられた部屋で、隙のない給仕でもてなされ「これは天然ものの中でも特に選び抜かれた最高のものです」などと言われたら、口にする前から美味しさを感じるスイッチが連打されることだろう。
天然ものの旬は十一月から二月で、二月九日はふぐの日とのこと。とうに過ぎてしまったが、先日ひょんないきさつから初めてふぐ専門店の暖簾をくぐることができた。誘ってくれた知人によると、良心的な価格で提供しており、私たちでも大丈夫とのこと。
先付けは煮こごり。乾いた喉を潤すビールに合う。席に着くや否やせっかちにもフグ刺しを待つ身なれば、会話の中身に全く集中できず。半世紀以上かけてお初にお目にかかるふぐ刺しは想像通りの眺めで、にんまりと三枚をすくい上げゆっくりと口に運ぶ。
これがふぐか。河豚の味か。
適度な弾力と甘み。口の中ふくふくしい。板前の捌き方が問われる料理だ。これより厚くても薄くてもいけない。なんて、ふぐは人を食通ぶらせる食材なのか、でもこれが自然な感想だ。素直に美味しい。
火をつけて青い炎とともにアルコールを飛ばしたひれ酒は、幸福感も手伝って何杯もいける。薄茶色に色づいた燗が身体の緊張を解きほぐし、芳醇な香りに骨抜きにされそうだ。炙った白子はトロリと甘くうっとりするが、高校の化学の先生の顔とテトロドトキシンが心の隅でクロスしたのは事実だ。
ふぐ。確かに旨いものだと知っただけで十分満ち足りた。一夜のふぐ会食を、私は機会あるごとに吹聴するに違いない。ふぐの神格化はこうして止まることなく庶民に受け継がれていくのだろう。
◎プロフィール
●作者近況
さえき あさみ
人生初めての本格ふぐコース。一番心に残っているのは、水槽の中を泳ぐふぐの顔
に付いた小さな緑色のムシでした。