ともきたる
2016年8月29日
6月20日に本が恵送されてきた。「ともきたる」森忠明著の空谷跫音録という随筆だった。奥付を見ると発刊直後の謹呈で恐縮した。
枕許に置いて寝る前に1編づつ読んでいった。新書サイズの軽装本だが、浅慮で読み飛ばすことが失礼な高書で、著者の半自伝的な精神の痕跡が記されていた。
本を読みながら、人は人との出合いで岐路が影響されると改めて痛感した。私もまたしかりで、忘れられない朋友、恩師の励まし、ふとした偶然から邂逅した人が恩人となることが多かった。
著者と私が出会ったのが10年ほど前だった。知り合いのAから「東京から詩人で童話作家の森先生が来られる。食事でも一緒にどうか」と打診された。袖触れ合うも他生の縁というが、一期一会を愉しみたい、と考えて食事会に参加した。
居酒屋から餃子店へ移動しての歓談は初対面から心置きなく打ち解けた。それゆえに、ことば使い師・森氏への共感と敬いが倍増していった。
その後も十勝で再会し、昨秋は伊豆の帰りに武蔵五日市でお会いし過分なる歓迎を受け恐縮するばかりだった。
森氏は高2の秋に詩人谷川俊太郎に会って、高3で演劇実験室・天井桟敷を主宰していた寺山修司氏に呼ばれて会っている。「寺山さんがあなたの全作品を拝見したいとのことです」と詩人で秘書の田中未知氏の美しいペン字の2葉が届いたからだ。当時19歳の森氏は、学研の「高3コース」に詩を投稿し文芸欄選者の寺山氏に賞賛された。その後、森氏は天井桟敷の初代文芸部長として鬼才寺山氏を扶けた。天は自ら扶ける者を扶く、という。
そもそも小学5年から森少年は「パスカルの不安」に苛まれて悩める葦状態で「がんばれ、元気だせ」が嫌いなことばだと述懐する。
2年間休学していたら、間宮林蔵の子孫らしい有明昭一郎君が励ますことなく、ぼんやりと側でつき合ってくれた。たった一人の幼友達だという。感情を逆撫でしない彼の静かな存在がどれほど有り難かったか、それを心底知ったのが彼が23歳で事故死してしまったからだという。
子ども時代、有明君と過ごした思い出を書き残しているうちに作家と呼ばれるようになっていたと森氏。
「ともきたる」は、詩を教えてくれた先生、森編集長の月刊学校新聞作りを評価した高校の校長など、人との出会いの大事さに気づく。また、人の死、孤独、挫折など心の陰影こそ、生を輝かせ尊い芸術性を培養すると逆説的に思う本であった。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。「流転・依田勉三と晩成社の人々」刊行。