星が流れる
2016年11月28日
みな等しく死から逃れられないのは分かっているが、自分に縁のあった恩師の訃報はつらい。
11月18日の夕方、ネットのニュースを見ていると「作家の藤原ていさん死去」という文字に驚いた。15日午前10時、老衰のため東京都練馬区の病院で98歳で没した。胸の中で輝きつづけた星が流れた。
今から27年前(昭和64年)私は某新聞社が主催するエッセー教室に通った。ていさんが講師だった。仕事で働き盛りの私がなぜカルチャー教室に通う気持ちになったのか。
そのころ私は同人誌に入って散文などを書き、同時にNHK通信教育で文章の添削を受けていた。時々新聞の読者欄に投稿すると採用された。だが、他流試合の真剣さに欠け、他の道場で自分の不確かな歩みに気合いを入れてもらいたいと考えた。批評されて傷つくかもしれないという覚悟もあった。
当時、新聞社の報道部長と3人の講師がいた。提出した自作に赤ペン入りで返ってきて、なるほど、とうなずいた。直接てい先生の添削をいただくことは可能性が低いと認識した。
ある日、帰宅すると新聞の夕刊に、私が教室での課題作「恥かき人生」が載っていた。末尾の講評がてい先生だった。うれしいよりも驚いた。
「実に達者な文章である。平凡な日常のことを、これだけの筆力で書くことは大変むずかしいはずなのに、上手にとらえて表現している、やがて長いものを書くようになるだろうが、その時にも、これだけの迫力がつづくか、期待を持って見守っていこうと思う。(作家・藤原てい)
おしなべて、てい先生は生徒の作品に対して褒め上手だった。褒め過ぎだ、そう思いながらも私は心が弾んだ。
その後、エッセイ教室の懇親会で林芳朗講師が「てい先生がお呼びですよ」と声をかけてきた。頭を下げてそばに寄った。聞かれたことに、ただ応えるだけだった。
2年間、教室に通ったが、仕事が忙しくなり、やめることにした。てい先生にお礼とお別れの手紙を書いた。返事が届いた。「たとえ、お目にかかれなくなりましても、どうかお書きになりますように…」
てい先生は、不確かな歩みの私の背中を押してくれた。恩師のことばを糧に、今も文を書き紡いでいる。
◎プロフィール
北海道新聞「朝の食卓」元執筆者。十勝毎日新聞「ポロシリ」前執筆者。「流転・依田勉三と晩成社の人々」刊行。