生涯学習
2017年3月27日
デザインの自営を少しと本の編集も並行し、さらに新聞記事も書いて忙しい今の私には、新しい仕事を探す必要がない。もう履歴書を書く機会はないだろうと思う。
履歴の枠からはみ出してしまうほど転職をくり返し、学びも多かった。まさに生涯学習の人生が今の私にたどり着いたともいえる。
故郷を離れて札幌へ出たのは、デザインの夜学へ入学するためだった。昼はN図案に勤めれたが、すでに印刷会社での経験がある私はすぐに実践が通用した。
次の年の夏に、アメリカの通信教育も受講したが、レベルの高い教材本は月の支払いも負担になった。
その頃、知り合いのSさんが「月刊誌を作るZ社で制作者を探している」と教えてくれたので、私はわずかのベースアップが目的で転職した。
それでも夜学の授業料と米国の通信教育の毎月の支払いは難しく、夜学は中退することになった。
N図案の寮には4人が暮らしていた。OBの長谷川さんが時々遊びに来て親しくなり、寮を出た後も交流していた。彼は広告のK社に勤めていた。私は食事に誘われて「K社に勤められるだろうか?」と彼に志望を伝えた。「帯広支社の制作なら欠員が出てる」と彼は答えたので、紹介をお願いした。おかげで帰郷し、その帯広支社に勤めることができた。
その頃、実家に帰ると父親が不服な顔で「また仕事変わったのか」と説教してきた。黙って聞いていたが「うちが貧乏だから働きながら学び、給料の少しでも高い職場に転職してきた」と胸で反発した。「本ばかり買って」と父に皮肉られたが、その指摘は見当外れではなかった。
その頃、太宰治の全集や哲学書などを本棚に自慢げに並べたが、せっかく買った読み切らない本を古本屋に売ってくる給料前の困窮ぶりだった。
帯広に帰ってからも米国の通信教育はつづけていて、最後の課題は26歳で提出し、オールAで修了できた。
その後、エッセー教室へ通った。それらの学びは今に役立っている。
札幌から帯広と20代に何人かの好きな女性と出会い、友人などにも紹介されたが、学びに集中したい私は付き合いも深まらず、結婚へも煮え切らなかった。それらの女性の顔を思い浮かべるとき、今は詫びる気持ちがこみあげてくる。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
DVDのドラマやサスペンスが好きで、スティーブンキングの映像化は必ず観る。俳優・高倉健はあこがれの人物。愛読書は「菜根譚」。十勝毎日新聞通信員。