社会が人間を作っている
2017年4月10日
早春の夕暮れ時、久し振りに街へ向かって歩いてゆく。風が少し吹き荒れて冷たい。その冷たさにいつものように自分という人間のしょうもなさが曝されているようでイヤだなと思う。
街へは飲みに行くのだ。飲むといったってせいぜいビール1本に日本酒1杯くらいが限度で、小皿物が2つもあれば事足りる。ようするに飲みに行くというより、そのことによってちょっと何事かをメモったり切り抜いた新聞を読んだりというようなことで過ごしている。
で、街へ向かっている者は少なく、向こうからこちら側に来る者が多いのは仕事や学校からの帰りなどだから当然なことで、高校生とか会社帰りのサラリーマンやOLたちだ。そんな彼らの顔を見ているとみんなまともな顔に見えてならない。彼らから見れば、こっちは「オヤジは街へ飲みにいくのか」などと思われているのかも知れないな。そういうふうにでも見られているとするならちょっと落ち着かないな。
(いいじゃんか、あんたがたにはカンケイないんだしさ…)
今すれ違った自転車に乗っている可愛い女子高生は、学業や部活に目標をもって生きているふうにも見える。背筋をしゃんと伸ばしながら足は正確に一定リズムで回転させている。あんがい学校では、男子生徒が何かモーションをかけてきても、さしあたってはプィとはねつけているのかもしれない。
(男はみなアホなのよ)
とでも言っているのが、ツンとしているような顔に表れているふうにも見える。
サラリーマンのオヤジたちは、吹き付ける風の中、いくぶん首を引っ込めながら、どこかしら困惑したような表情で家路を急いでいる。ただ疲れているのか、仕事がうまくいかないのかなんなのか、家に帰りたくないような顔にも見える。もしかして家にはしょうもない妻でもいるのか。
けっきょく社会や政治というものがそういうふうに従う人間たちを作っているのかな。いや、ようするにぼくの場合は、社会にあってうまく機能していないようなニンゲンなところがあるのだ、と思っているのだが。しかたがない。いまさら、ああしようこうしようといったところでどうしようもないのではないか。その結果それなりの厳しさでもあったら、あまんじて受けなくてはならないようなこともあるかも知れない。
寒いな。熱燗をゆっくりと飲りながら、生きてゆくことについてでも考えてみたい。ま、2時間もすれば帰るのだ。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。
北海道新聞コラム「朝の食卓」執筆者。