小学校時代
2017年5月15日
ぼくの家から東へ1丁ほど行くと「帯広市立光南小学校」がある。1学年5クラス、全体で30クラスほどある。ぼくは耳が少し遠いために、席は6年間通していちばん前だった。
1年生のある日の国語の授業中。佐藤幸吉先生が「教科書を読んでみなさい」と、いちばん後ろの席にいるサトウユキヒロ君を指名した。ふり向くと背の高い彼はスッと立ち上がって本を開いたが、緊張しているのか声が出ず、静かに泣き出してしまった。ぼくはかわいそうだなと思って彼のところへ行き、肩を叩いて「泣くなョ、な」となだめていた。整骨院の息子で、勉強が良く出来るのだ。
4年生のある音楽の時間。担任の土井祥子先生のピアノで、1人ずつ側に立って「線路はつづくよ」を歌っていた。やがてぼくの番が来て元気よく歌い出したら、「アッハハハ…」などとあちこちから笑い声がした。ぼくははじめてオンチらしいことを知った。
「泳ぎ」が好きだった。夏になるとプールで泳いでばかりいて、雨で遊泳禁止の赤旗が立っても水に入れば同じだからと、柵を越えては5千メートルも6千メートルも練習をしていた。いつしかぼくの泳ぐ世界はプールから札内川へと移っていった。河原で遊んだり水に潜って魚たちと泳いだりして、札内川は楽園であった。
6年1組時代。同じ町内に住んでいるタナベセイイチは、背が高くて静かな表情と気の強さがある。家は建築屋で、彼は高価なラジコンカーなどを持っていた。サイクリング車は20段変速のもので、銀色のギヤなんかはすごい感じがし、性能が良くて速そうだった。そしてラジコンカーを大事そうに見せては、「な、さわるなよ、壊れるからな」なんて言う。
クノマチコは、日本的な顔立ちで頭が良くて優しくてマドンナ的存在なのだ。頬の辺りが少しポッチャリとして可愛い子だった。眼の前にいるのに思いを伝えられず、遠い存在でたまらなかった。毎年届く年賀状は何度も見詰めては机の引き出しに大事にしまっていた。
ナリタカズヒコは級長で、皆から一目置かれる存在なのだ。グラウンドの北側にあるレンガ造りの公営住宅に住んでいた。成績優秀で気難しさもあり、ぼくが何か間違っていたりあるいは話が見えていなかったりのときなど、彼は眉間にシワを寄せて、「おまえそんなこともわからんのか」と注意をする。
もう50年以上も前のことだった。少年時代は、世界のなかで思いも言葉も行動も素直でかつ正直に生きていたのだ。そんな淡い金色のようにも見える世界が今はすでに遠いモノクロとなって、少し寂しい気もしていた。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。
北海道新聞コラム「朝の食卓」執筆者。