ことばを紡いで
2018年2月26日
この冬、平昌五輪の日本女子選手のメダル獲得は快挙だ。高梨沙羅の銅、高木美帆の金・銀・銅、小平奈緒の金・銀…。まさに感動的だった。
彼女らは試合後の会見で、異口同音に周りで支えて励ましてくれた人々への感謝のことばを述べていた。
メダリストのような栄誉とは無縁の私だが、ささやかな仕事の成果にも、やはり、支援してくれた人々がいることを忘れない。
わが愛読書は「菜根譚」だ。この本はよき心がけを根底にした処世学で、なるほどという箴言がある。
「人によいことをしても、忘れることだ。逆に、他人が与えてくれた恩恵は、忘れてはいけない」という説は奥深い。
いくつかの異業種を経験してきた私だが、仕事の中心はデザイン制作だった。だが、その一方で私には文章を書くという営みがあった。
私の文が、中学の卒業文集に大きく載っていたので驚いた。担任の三好政雄先生が「文がよかったからだ」と褒めてくれた。
高校では、現国の桑原昭夫先生が生徒の前で「吉田は文才があるんだ」と言った。私が会議に出て教室にいない時だった。友人から聞いて、面映く、そうかな?と有頂天になった。
札幌で夜学に通い働いている時に、知的で優れた人に会うたびに気づいたことがある。本を読む人が多かった。私も読書で人間性を高めよう、とビジネス書や哲学書を読みはじめた。
三十代に、小檜山博の「地の音」を読んで泣けてきた。人の胸を打つ文を書きたい、とエッセイ教室に通った。講師の藤原てい先生に声をかけられ、「あなたはいずれ長い文章も書けるだろう」との励ましは嬉しかった。
その頃から、富田友夫編集長の「プラスワン」に発表の場をいただいた。それらのエッセイを目にした道新の新蔵博雅(報道部長)氏に十勝版のコラムの執筆を依頼された。その数年後に「朝の食卓」の執筆者になった。そのコラムは高田昌幸記者が担当だった。
札幌へ出た折は、道新ビルに立ち寄り、新蔵氏や高田記者を訪ねた。再会はお礼の顔見せとした。
小檜山先生との親睦も愉しく、講演会も事情が許す限り顔を出した。
恩人の名前を上げたらきりないが、手紙を出し、会える機会には感謝した。受けた恩を忘れるわけにはゆかない。
◎プロフィール
人との絆を描き、書きつづけて初エッセイが出版できた。それは思い出を紡ぐ人生の旅のようだった。