帯広の発祥地めぐり
2018年3月26日
2月の某日、水光園オベリベリ温泉に浸かった。寒い冬は温泉で体を温めると心身がほぐれる。この辺りから帯広の開拓が始った。
近くに晩成社ゆかりのスポットがあるので車でまわった。アイヌ語でオベリベリと呼ばれた下帯広に、晩成社の開拓団が入ってきたのは、136年前のことである。川沿いの下帯広には数人の和人と先住民族が住んでいた。
オベリベリ温泉のやや西側に渡辺勝カネ夫妻の入地の碑がある。鈴木銃太郎の草小屋は現在の柏葉高校のグランドの辺りか。その渡辺と鈴木の中間に晩成社の事務所があった。
その辺りには、私が以前勤めたデザイン制作会社があった。また、柏葉高校は私が通った高校だ。晩成社の開拓地は、私の人生のある時期と重なる。
また、その一角には帯広発祥の地の碑もある。「開墾のはじめは豚と一つ鍋」と詠われている。この晩成社の豚はいつ入ってきたかと誤りが多い。
茂岩の田口秀正の証言では、釧路の中戸川牧場から勉三が豚のつがいを購入し、徒歩で追い戻ったのが、明治17年の晩秋。大津の農家に預けた豚は、翌年の4月に銃太郎らが丸木舟で帯広まで運んだ。
帯広神社の国道をはさんだ南側に中島公園がある。この公園は中島武市氏の姓から名づけられた。武市氏はちなみに歌姫中島みゆきさんの祖父である。その公園には帯広開拓の祖・依田勉三の像がある。中島翁が率先して寄付を募って建てた像だった。
昔も今も晩成社の幹部たちが人々の衆望を集めてきたのは、彼らの知的水準の高さではないか。つまり幹部たちは苦難と失敗を重ねても、常に学ぶことを怠らなかった。
農閑期の冬は詩を作り、銃太郎の父 親長(ちかなが)が、幹部を集めて「論語」や「朱子学」を講義したという。勝と勉三は伊豆の豆陽学校で教師だった。渡辺カネは晩成社の移民とは遅れて帯広に着いたが、やがて学校なき村落で子弟やアイヌを集めて塾を開いた。
勉三の慶応大学の師でもある福沢諭吉は「物事の道理を知るための学びをいかに必要とするか。無知蒙昧の民ほど愚かなものはない……」と述べている。
最近、直木賞作家が、晩成社を小説に書くと伝わってきた。苦難の開拓者たちがインテリというのは魅力のひとつではないかと思った。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
鈴木銃太郎は、わがまちの開拓者で、先住民族の娘と結婚した。その半生を描きたいと書きつづけて、やっとめどがついてきた。