No.1,322
2018年4月 9日
四月の声を聴くなり暖気流が北海道にも上陸し、西日本では既に桜満開過ぎ散りし。
先月一日大雪の日には、たかが一か月前に過ぎぬも車で帰途中、何度も雪に埋まり通りすがりの人々に無償の救助受けつつも体力の限界に「このまま自宅に辿り着けず遭難してしまうのではないか!」とさえ。こうしてニュースに物語で知る「遭難に関わる人々」を、ヒドク身近に現実味を持ち体現。たかが、一か月後の同じ時刻同じ場所に立つと、あの目にした方々車埋まり人々が戸惑い助け合う正に「懐かしき共助の姿」に幼き頃常に目にしていた風景の如く。東日本大震災の時、世界に配信された苦難の中にも、人を思いやる行動が賞賛をもって報じられ、改めて稀有な国民性を認識させられましたが、自分も非日常に置かれ、初めておのれの本質の一端に触れるのでしょう。
よく自分を知るには「旅」に出ろ、と言われるは普段の生活では遭わない事態に直面した折り、如何なる反応をするかにより、人の根っこを見定めるのを言うが、現代生活ではこのような場面に遭遇せずとも、生活が成り立つゆえ「実際には自分はどんな人間なのか知らず」歳を取り続ける傾向多く。
話戻し、先の大雪で周囲に複数台の車が立ち往生。その光景において人々の動きを思い起こすと、あちらでは車を前後に進みを繰り返し、そちらではスコップで必死に車の四方かき出し、こちらでは他人同士が協力し、一台一台順番に押して脱出中。その側にポツンと埋まった車の中、運転席に座る女の子。他方ポツンと埋まった車の横に立ち続ける男の子。二人に話しかけてみると揃って「親に電話して来るのを待っているところ」ですと。周りでジタバタ助け合っている大人たちとの一線を引いた姿に違和感よりも、なにか次元の違いを感じ「ハッ」とさせられ。生まれ育った時代背景により、対する行動はある程度は定まるのかと。
僕らの若き時代は「書を捨て街に出よう!」って耳にしたが、この時代へは「スマホを捨て隣人と触れあおう!」と唄いたい (^^♪