鈴木銃太郎の結婚
2018年7月23日
私の住む町の開拓先駆者の一人が、鈴木銃太郎である。
わが郷土のパイオニアの小説をいつか書きたいと思ってきた。そのために史実とその時代を把握してきた。
現代人が、その時代を理解するのは容易ではない。幸い銃太郎は日記を残している。だが、その日記も損失部分があって明治22年から4年間が空白だ。シブサラ(西士狩)開墾、入植と大事な始動期が欠けている。そこは依田勉三や渡辺勝日記を読み、埋め合わせるしかなかった。
彼は晩成社の幹部として明治15年に下帯広に入地した。当時は想像を絶する不便な生活だ。
何しろ開拓使は、有望な沃土と期待された内陸十勝の開拓を後回しにして道南、石狩方面から開拓を進めた。十勝の内陸に道はなく、大津から帯広まで約90キロの距離は、丸木舟で4日間費やして十勝川を往復した。未開地に住む独身の銃太郎に本州から嫁を迎えるのは困難で、横浜を発つ前に嫁候補の名が何人か挙がったが、開拓移住を相手が知ると尻込みした。
渡辺勝も交際していた女性がいたが北海道移住を口にしたら破談になった。幸い勝には銃太郎の妹カネとの結婚がまとまった。カネは父や兄の北海道ゆきに賛同していた。未開地の厳しい生活を覚悟したカネの決意も生半可ではない。
晩成社の吉沢から、大津に住む和人の娘との縁談を紹介されたが、銃太郎はこれを断わっている。
明治19年の春、銃太郎はアイヌ娘コカトアンと結婚し、常盤と改名した。彼女は晩成社で雇用した一人だった。
依田勉三が虚弱なリクさんと結婚し、体調を崩して、伊豆へ療養のために帰省したので、銃太郎は嫁を迎えるには開拓農民の仕事に耐えるべく健康な女性と考えたのかもしれない。
常盤は、家事や農業に携わり、馬を操り騎馬も器用にこなして内助の功を発揮し、5男2女に恵まれた。
長男の勇一は父の後を継いだ。5男は教師に、長女はアメリカに渡った。次女はロシア語通訳の仕事に就いた。
大津街道が通じたのが明治26年で、その年末に帯広市街地の貸付が告示された。拓けゆく十勝の扉がついに開いた。晩成社の辛苦の日々は10年入地が早かったからともいえる。
◎プロフィール
(よしだまさかつ)
小説の校正をくり返して50回。原稿用紙360枚。埋もれた原石を磨きあげた実感。私の宝です。