No.1,342
2018年9月 3日
平成最後の九月が始まりました。 さすがに十勝も涼しくなって参りました。少し前を思い出せばクーラーを入れているときの皮膚感覚ですね。
西日本の知人からの電話では未だ三十五度近辺の猛暑で、「ヒーヒー」申しております。やーっと、北日本は面目躍如で「らしく・・」の冷涼感漂い、そもそもの「北海道の夏は過ごしやすい」。
今週から東京の友人が三泊四日でゴルフ休暇にやって来て、十勝で三連戦勝負します。二十数年来、毎年の恒例行事なのですが、何しろここ数年の帯広の気温上昇に彼らはよく、「わざわざ飛行機に乗って避暑ゴルフに来ているのに、この暑さは東京と変わらないじゃない!」と、憤りをぶつけられます。確かに言う通り、の温暖化に気づかされる場面であり、一方では「夏」を少しでも長く引きずり味わいたい地元民としての願望もあり、複雑な気持。そんな彼らとの再会時間は、もう歳を重ねハチャメチャやる元気も体力も減じている故に落ち着いたもの。
思い起こせば、成人するかしないかの頃より、大都会東京を舞台に「バカな思い出」が山の様に記憶として積もり、その中で数多のキャラクターを持つ登場人物達と今もっての再会には「長年生きている醍醐味」すら憶える。 「戦友」を一生脳裏に住まわせ、詫び、語り掛け、老いてはなおの事、身近に。そして枯れ果て亡き友の元へ旅立つ姿を、今も終戦記念日近し頃に拝見しますが、共感します。
人は認知症方向へ歩き出すと、手前の記憶から消失して行く。遠い記憶から忘れて行きそうなものですが、逆で今しがたの手前の出来事からの遡って記憶を無くしていく。これは側で接していて相当、「ツライ」。かつて手を引いてくれた人を、やがて手を引く側に回り労りつつ歩く。目線が逆転する、ただ切ない、どう感謝をつたえてよいのか途方に暮れつつ。やがて送って、心に穴が開き人生を考えては、また日々を紡ぎ続ける。
そんな一生で、限られたときの中で出会えた人々とは何なのだろう。「袖触れあうも多生の縁」。