英語がファーストなのか
2018年10月 8日
地球上において世界は急速に発展して狭くなってきている。そこで何かというと英語は国際共通語だとか言う。言語上において他の国々の人々と意志の疎通を図る利便性からしても英語が共通性をおびてくるというのは必然性からきているのだろう。それは20世紀からアメリカが、軍事力、経済力などで世界のリーダー的役割をしているせいからではないか。ビジネスや学術研究あるいはスポーツほか考えれば、共通性のある言語として英語が便利ではある。
国際性を考えれば、幼児の頃から英語を習わせたいと思う親が多いらしい。何しろ英語を喋れることはカッコいいと思う人も多いのだ。それもひとつの方向性としてはあるだろうが、そのたびに「ふぅ~ん」と不思議な違和感を覚えてしまう。ぼくとしてはそういう話は何か違う世界の話ではないかと思っている。自国民としてのアイデンティティーというものについて考えてみたい。
基本的に大和、日本とはどういう国で日本人とはどういう存在なのか、ということについて想いを致したくなる。日本語文を書く場合、単にストレートで記すならばひらがなで表せるが、それを文章として連ねた場合には、ことばによって所々を漢字であるいはイメージや感覚によってカタカナでも書くことができる。つまり同じ言葉を三つの文字で書けるという恐るべき「変貌自在の言語」ではないか。
日本は「言霊のさきはう国」と言われている。ことだまとは言霊と書いて、言葉に霊が宿るという意ではないのかな。霊とは何か。天地創造された親神様によって創られたまだ形にもならない以前のものが霊的なもので、それが現象化され、人の口から発せられて言葉となるのだろう。そこで「アナタイイヒトデス」と言葉を発したらぶるぶると波動が伝わって相手はいい顔をするが、逆に良くない言葉を発したら相手はその波動に不快感を覚えるのである。従ってその秘められた力が対象となる相手に影響を与えてしまい、それによって物事が現象化してしまうだろう。
世界中で大昔から自らの国を神の国と言っているのは、大和すなわち日本だけである。かつて某首相が「日本は神の国である」と言って物議をかもしたが、それは間違いではないのである。
大和、日本の国と歴史に思いを馳せると、遙かなる世界が込み上げてきてならない。言語から知はすべて始まっているのだった。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。