No.1,349
2018年10月29日
日々行き交いつつ目に致しております街路樹達もすっかりと紅葉しては「ハラリハラリ」。赤黄色に染まる路面のジュータン。風情を感じつつ眺めておりますも、別の角度からは「清掃対象のゴミ」であり、適当に竹ぼうきで掃き集めビニール袋に詰めるのを、やんわりと繰り返し。
数年前ホームセンターにおいて、落ち葉を吸引し粉々に粉砕し据え付けの布袋へため込む道具を購入した。ちょうどドライヤーのどでかい形で、肩にかけて使用する半業務用的便利商品。そのままの落ち葉を袋に詰めるより体積で四分の一位に圧縮。と、使っていても面白かったが三年目に小石や枝木も吸い込んじゃって故障で放置。それで現在は元の竹ぼうき清掃ですが、やはりコレがいい。
で、何がいいって、身体の奥底の声が納得して掃き掃除を支持してくれているのを感じる。それこそ「前前前世」さかのぼるご先祖様たちの日々や血がそう教える。あらためて人間は、「便利」な道具ばかり身の回りに据え、その結果増やした時間を一体何に使おうと言うのか。
自由経済主義においては絶えず生産拡大の為働き、日々の生活の一々を機械に代理させるのだと。明らかな日本人口減少を補うために、女性も年寄りも家の事や子育ては簡略化させ、社会的にお金を稼ぐのが正しいのだと。それが今の世の「解」と、誰も疑わず日々追われている。
いま、世界では急に「プラスチックごみ」を無くそうと、ストローだの買い物袋だのを使わないのが「正義風潮」。海がプラゴミだらけとか、中国が世界中からの引き取りを止めたせいだとか。「便利」と「環境」とは相性が良くないのでしょう、この場合の「環境」には人間含め生物全般。ストローは、元々は「口移し」だったのだろうね、買い物袋は風呂敷一枚持参していれば済む話で、もっと遡れば生活所帯がまとまれば「個の買い出し」は不要。
「竹ぼうき」から話は飛躍しましたが「幸せとは?」の問いから遠ざかっている21世紀に思えて。