「お福」で蕎麦をいただく
2019年3月11日
厳しい冬が終わって気持ちに少し温みが出てきている。春とはいえ、十勝はまだ肌寒い日々がつづいてはいるけれど、冷涼の大空の下では徐々に本来の春へと向かっているのだ。極寒の日々から解き離れた分、静かな温かさが見えている。
蕎麦を食べに行こう。どこか冷感のイメージがするような蕎麦だが、冷たいのでも温かいのでもどちらでもいい気がするのは春だからか。新そばの季節は秋だけど、ぼくは以外にも春の頃がいいような気がしている。たいていもりかおろしを注文する。温かいのであれば掻き揚げ天ぷらやカシワなどがいい。
帯広の稲田通りにある蕎麦屋、「お福」へ行こう。ある日のお昼前、母を誘った。
「そばを食べに行かないかい? 体にも良いし、どうだ」と訊いてみた。
「そうだね、行ってみるか。私は天ざるがいいな」
素朴な表情を見せながらそう返事したので車で向かった。
蕎麦の持つ風情や素朴な味わいそしてシンプルさが、いわゆる塩分、糖分、脂肪分などが過剰に濃い料理などとは違う、それは知性を感じさせるところがとても凛としていいのだった。北海道産のそば粉には、十勝産、黒松内産、摩周産、幌加内産他いろいろあるだろうけれど、そば粉というものは収穫したその年その時々によって味が変わってゆくところに難しさもあるとされている。
母は天ざるを静かに召し上がる。天麩羅も美味しそうだ。
注文した冷たいおろしそばが目の前に置かれた。そしてつゆと小皿に載せた刻み葱と山葵などその全体的に見た目の雰囲気は、人間の欲深さや肌理の荒さなどを鎮める働きがあるのではないか。どちらかというと、賑やかに楽しくなどではなく、心静かにいただくという感じがしてしまう。汚濁に満ちた世の騒々しさなど無縁の世界ではないか。TVのグルメ番組の低俗性には脂ぎった空気を感じてならない。
蕎麦、水、わさび、ねぎ、しょうゆ、などの世界は日本文化の侘びや寂によく似ている。自然と食は芳醇な生命に満ちてそれと人の知性とは見えないところで繋がっているのだ。蕎麦の1本2本をつゆに付けないですすって食べると、旨味があって心地をくすぐる。
主人の国見さんが来たので「しばらくですね」と声をかけると、素直なのか、頑固なのか、微かな笑みを浮かべながら小さくコクッとうなずいて挨拶をした。本別町出身で30代の彼は、日本を代表する蕎麦打ちと謳われている当時広島県の高橋邦弘氏の下で修業をした。蕎麦もどきではない本当の蕎麦というものを目指して打ちつづけている。
◎プロフィール
帯広市出身。自営業。文筆家。趣味/映画・街歩き・旅・自然光景鑑賞。著書 銀鈴叢書『札内川の魚人』(銀の鈴社)。銀鈴叢書『歩いてゆく』(銀の鈴社)。