一度失った信用は
2019年3月 4日
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず。
瓜の畑の中で靴を履きなおすと瓜を盗んでいるのでは?李(すもも)の木の下で冠を被り直せば、李を盗んでいるのではないか?と、疑わしい行為はするものではないということわざだ。初めて母に教えてもらったことわざだった気がする。人から疑われ、信用を失うことを想像すると身震いした。子供なりにその意味を理解し、以来今も強く心に刻まれている。
私が小学校の頃は道徳教育が盛んだった。課題図書も交代で家に持ち帰り皆で読んだものだ。教育研究会なるものがあって、年に一度ほど他校の先生方が授業参観に来た。担任の先生はいつにもまして事前準備に余念がない。廊下にまであふれる先生の数。緊張感に包まれた教室で、最初はポツリポツリと優等生的な意見しか出てこない。
「いつもの元気がないなあ」
先生は笑顔で問題提起という名の爆弾を投下する。すると、先生の目論見通り一気に活発な議論へと発展。賛否の意見の応酬でクライマックスを迎える。終了のチャイムは参観者の割れんばかりの拍手にかき消される。担任の先生の紅潮した頬。満足げな笑顔だった。
大人になり「あの頃はだいぶ教師に誘導されていたな」と苦笑いをするものの、人としての生きる姿勢の基礎のようなものを学ぶには、刷り込みも必要だと思う。人に迷惑をかけずお互いが半歩ほど譲り合うだけで、気持ちよく心穏やかに暮らせる気がする。
「人様に迷惑をかけるんじゃない」
「相手の立場に立ってモノを考えなさい」
祖父母やそのあたりの年代の人達によく言われたものだ。だからといって歯を食いしばり血を流す思いで遵守してきたわけではない。子供のころの躾や常識・価値観・環境というものは自然と自分の常識になっていく。
最近はどうだろう。
アルバイト従業員の度を越した悪ふざけ動画がいくつもアップされ、ニュースに取り上げられる事態になった。いずれも全国的に名の知れた食品を扱う店での問題行為だった。不適切動画という表現は不適切だ。これらは明らかに罪に問われるべきもの。一瞬の悪ふざけで多大な慰謝料を要求されることになるだろうことを予測できないのも情けない。許される境界線が解らないのだ。何をしでかすか信用ならないというレッテルを剥がすのに時間もかかろう。
「悪い噂は石に刻まれ、善行は砂に書かれるよ」
母のこの言葉も幼心に怖かった。
◎プロフィール
●作者近況
さえき あさみ
くまもんに会いに行った。どうしてあんなに可愛いんだろう。