令和が花開く
2019年5月 6日
「初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉をひらき、蘭は珮後の香を薫らす」
新元号で一躍世に知れた万葉集の梅花の歌。令和は六四五年の大化から数えて二四八番目の元号であるという。中国がへそを曲げようが、国書から典拠されたことで国民の心を掴んだ気がする。
発表以来、早速書店から万葉集の梅花の歌が掲載された第五巻が棚から消えたとのこと。初春の和らぐ風の中で梅の花が開き香が漂ってくるとは、日本の四季の移ろいの中で春を詠む陳腐と思える一コマでしかなく、つい読み過ごしてしまいそうだ。日本文学という宇宙的な世界から「令和」の二文字が誕生したことに神秘を感じる。時空を超えて心は雅な奈良時代まで軽く飛んでいくのだ。
ふと思い出す高校時代、仏のあだ名を持つ優しい古典の先生の声は子守唄だった。うららかな午睡をむさぼる生徒多数。安い授業料で濃密に学べるのだから、もっと勉学に励むべきだった。生徒数が減って廃校になるならば、いっそ社会人にも開放してほしい。一年に一教科をじっくり深く学び直せたら、数学でさえどんなに楽しいことだろう。
全二十巻の万葉集。「年に二~三冊売れるかどうか」とはある書店員の話。文庫本ですら一冊の厚さもかなりのものだ。興味があっても、たとえ書店の棚に第五巻が戻っても、サバ缶の争奪戦にように「ゲット!」と手を伸ばすことはないだろう。
元号は皇位の継承による年の呼び名に過ぎないのだから、必要な人だけが使用すればよく、一般庶民にまで持ち込まないでほしい。計算しやすく西暦に統一すればいいとずっと思っていた。それは自分でもうまく説明できない曖昧模糊とした反抗心でもある。今でも西暦表示を主にして元号はサブ程度にという合理的な思いは変わらない。冷静に考えれば十連休にする必要があったのか。ここぞとばかりに海外旅行に出て行った国民はそれでいいのか。新元号によって私たちの暮らし向きが変わるわけでもなく、なんだか釈然としないものもある。
でも、元号に願いが込められていることは、確かに私たちの心を掴んだに違いない。国民全員が心を寄せて、幸せを願い「令和」という絵馬を奉納したかのような。
梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように。人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代になりますように。(政府発表元号に秘めた思い)
そして、どうか戦争がありませんように。
◎プロフィール
作者近況
最近八十代、九十代のお得意さまが増えた。共通して皆さんお喋りで交友関係が広く毎日どこかへお出掛け。還暦前の私の方が老けこんでいる。