No.1,437
2020年8月31日
「スマホ中毒」なる言葉が出現して数年、若人由来の他人事で居たところ。
まあ、知り合いのミュージシャン達が頻繁にSNSでドウでもいい事を投稿しているのを冷ややかに見ていた、は以前から。ボク個人的には「イイネ」などと、インターネットプラットホーム作成人々の、人の脳を巧みに利用した商売は好きでは無かった。また「Windows98」から20年余り世界中の人とネットとの関係性を観察している立場から言わせてもらえば、子供の頃から手元にあった世代の人は当然、当たり前に使いこなしている様に見えて個人情報を世界に晒す危険感も薄く。
昭和世代は、個人的な「写真」は家々の紙のアルバムの中に秘し、閉じて収まっているもの。そこには家族の歴史、恋愛の跡、それぞれの人生の断片がヒッソリと綴じられている。それを時に開き、自分の生きて来た時間の確認をし、自らの存在の意味をも腑に落とす。
「手紙」や「ハガキ」もそう、紙に想いを込め筆を取り、相手への心情が書く字の表情さえを醸し出す。もちろん現在の、キーボードを叩き送るメールとの対比です。途中まで書き及んで思い直し、行を言葉を訂正するのもチョイのチョイで楽ちん。キーボードは両手で書けるしね。漢字なんかも一々辞書で引く手間もなく、話の流れで勝手にAIが予想文言まで提供してくれる。紙も消しゴムも辞書もいらず机の上には、パソコンのみでスッキリ。それこそ今回のコロナウィルスでの「リモートワーク」ってやつを可能ならしめた。
少し話ずれますが、会社会議に学校の授業もパソコンの画面越しが日常化。今年春からの新入大学生達も、全てのカリキュラムを登校無しでリモート化しており、未だにクラスメートと直に顔さえ合わせていない、なんて話を聞きますが、「ほんまかいな?」と。
人によっては何のために地元を離れ部屋を借り、不安と希望の中ハルバル移住して来たのか。
話を戻すと、スマホ中毒は避けては通れぬ「21世紀病」であり。